おじいちゃんが死んだ。
最近じゃない。
俺が小学校低学年くらいの時。
いわゆる、「母方の祖父」ってやつ。
ファミコンが好きなじいさんで、よく、一緒に遊んだ。
死んだって聞かされた時は、普通に悲しかった。
小さいながらも、その事実を受け止め、理解し、そして悲しんだ。
でも、なぜか涙は出なかった。
昔からそうだ。
映画、卒業式、恋人との別れ、学園祭、、、
感動したり、悲しんだりはするが、涙は出ない。
その時もそうだった。
葬式で、俺は泣いた。
でもそれは、悲しいからという理由ではなかった。
周りの大人が泣いていたから。
これが理由だった。
親父の膝の上で泣いていると、親戚だったのか、おじいちゃんに世話になった人なのか、
知らないおばさんが、「わかるんだねぇ・・。」と言った。
意味は、「こんなに小さな子供でも、おじいさんが亡くなった事を理解し、泣いているんだなぁ。」
と言う意味だった。
それを悟って、俺は、調子にのって泣き続けた。
今思えば、冷静で、冷たい子供だったろう。
俺の頭の中の何処かに、「葬式で泣くのはカッコイイ」と言う頭もあったかもしれない。
泣いている時に、「いつまで泣けばいいんかな?」
とか考えてた。
確かに、おじいちゃんが死んだ事は、悲しかった。
それは確かだ。
でも、その悲しみは、涙に成って表れることは無く、
そして、病院へ行く車で現れ、おじいちゃんの死体を見てピークを迎えた悲しみは、
葬式の時にはもう無くなっていた。
いや、薄れていたと言う方が正しいです。
そうなると、俺という人間は冷たいもので、
「この人は誰だろう?」「あ、この念仏覚えたい。」などと、
10年も生きていないガキにとって、「初めての葬式」というものは、
初めての事ばかりで、正座で痺れた足の事も忘れるほどの好奇心があった。
しかし、俺はおじいちゃんが死んだ事を、重大に受け止めなかったわけではなかった。
おじいちゃんは何処へ行くんだろう。
あの世でもファミコンできるんか?
と思った。
実際、おじいちゃんの棺おけに、ファミコン一式を詰め込みたかったと、今思う。
唯、ガキには、そこまで頭が廻らなかったんだけど。
そう言えば、今日は中日だった。
あ、もう昨日か。
朝起きると、家に誰もいなかった。
オカンに電話してみると、今から、おじいちゃんの墓に御参りに行くと言う。
俺は、彼女が来ると言う理由で、行かなかった。
理由はなんにせよ、やはり気が引けた。
自分の中で、正当化したりもして見た。
「前から約束してたんだから、おじいちゃんも解ってくれる。」
最低だ。
前から約束してた?
23日がそういう日だってもっと前からわかってたんだから、
約束を入れるな。
でも、結局俺は彼女の方を取った。
「また今度、墓参りに行けばイイや」
そうも思った。
2度目の最低だ。
行くわけが無い。
決まった日にも行かなかった俺が、全然関係ない日に行くわけが無い。
自分で解っている。
俺は、そういう感情が欠け落ちているんだろうか?
泣かないと言うのは、まだいいが、こう言うのは良くない。
自分で解っていても、そうなっている自分。
自分で解っていても、自分の事は解っていない。
唯、10年位前に、おじいちゃんが死んで、それをまだ大切に思う。
それができないのか。



いや、それはできている。
自分なりに、そう思う。
俺は、どちらかと言えば仏教徒だが、
そういう事は関係ない。
俺は思う。

墓は要らない。

この考えに、反対の人は多いと思うけど、
あくまでも、「此処は俺の中」なので、気に入らなかったら、読まなくてもいいし、
むしろ、その方が都合がいい。
唯、心から思う。
墓は要らない。
何故、死んだ人間にそこまでするのか。
何十万、何百万と言う金をかけて、
故人の名前が刻印された「石」を、偉そうに高い場所に飾るのか。
死んだ人を大事に思う心は大切だ。
しかし、それを形に変えることは、何か違う気がする。
小さい頃、金魚が死んで、それを庭に埋めて、そこら辺に落ちている石を上に乗せ、
板に、「〜の墓」と書いて、刺した。
その程度でいいんじゃないか。
その程度でも、多すぎるのではないか。
墓というのは、故人を大切に思う人の心に一つずつあればいい。
心の中で、「思い」の線香をあげればいい。
石屋という職業がある。
大いに結構だ。
だが、店(工場?)の看板に、でかでかと、「墓石」と書くのはどうだろう?
それはつまり、「お前んとこの年寄りが死んだら、うちで墓石を作れ」と言ってるようなものではないか?

墓は要らない。

もう一つ理由がある。
死んだら、生まれ変わる。
それは、この「色即是空」の最初の所で書いた。
誰か他の人に生まれ変わるかもしれないし、また自分かもしれない。
新しい生命かもしれないし、犬や猫かもしれない。
下手すると、「海」なんて事も有り得る。
とにかく、生まれ変わるんだ。
その生まれ変わる故人を、「墓」と言う鎖で縛り付けてはいないか。
魂が、其処から動かない。
でも、そうなると、現代の魂たちは、生まれ変われないから、
「生まれ変わり」と言うものが無くなる。
これは、動物が絶滅の危機に瀕している状態と同じだと思う。
でも、実際にはやはり「生まれ変わり」は行われていると思う。
ニホンオオカミが何処かにいるかもしれないように。
「墓?知るか。」
と思う魂も、少なくは無いだろう。

なんか、方向性を失ったみたいなので、ココらへんでやめておく。
今後、こう言う文の終わり方も少なくは無いと思うが、
やはり、そう言う事も俺の気まぐれなので、気にしないでください。
でわ。

平成十三年九月二十四日午前二時三十四分
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