第一話
「用事」
僕は本当に普通の会社員だ。
他の会社員と同じ様に、
普通のスーツを着て、普通に電車に乗り、
普通に遅刻して、普通に上司に怒鳴られ、
普通に仕事をして、普通に失敗して、
普通に上司に怒鳴られ…。
こんな毎日。
今日もだ。
会議で使う資料を作っていたのだが、全て作り終わった後、
ゴミ箱の隣に置いていたら、清掃員のお兄さんが全部回収してくれた。
またやり直し。
コピー機に向かっていると、
「手伝おうか?」
急に後から声を掛けられたからびっくりしてボタンを押す指に力が入った。
枚数設定の『0』を一つ多く押してしまった。
危うく200枚同じページが出来る所だった。
「いや、大丈夫だよ。」
彼女はお構い無しで手伝う。
「あ、20枚。」
僕は、弱い。
彼女は松田。下の名前は知らない。
正確に言うと憶えていない。
「ありがとう。」
目も見ずに言った。
あまり人の目を見て話すのは得意じゃない。
母親によく叱られた。
昼休み、外で昼食を食べ終え、川辺で一服していた。
僕はこの川辺が好きだった。
そんなに大きな川ではない。
少し大きな声を出せば、向こう岸の人と会話が出来る。
「おーい。」
この通り。
松田は向こう岸から手を振っていた。
僕はゆっくりと手を挙げた。
彼女は少し駆け足気味に橋を渡って、僕の隣に座った。
川を見下ろすように、斜面に生えた芝生。
透き通るような緑色をした芝生は、湿気が多い所為か、少し柔らかく、手をつくと掌がひんやりと湿った。
川に沿うように造られたコンクリートの小道を、ゆっくりと歩く老人。
「煙草吸ってるんだ。知らなかった。」
「嫌い?」
「ん。大丈夫。ちょっとイメージじゃなかったから。」
「そうかな?」
「そうだよ。」
休憩時間が終わり、資料は何とか会議に間に合った。
僕は急ぎ足で会社を出る。
松田が呼び止める。
「あ、坂下くん。」
坂下明
僕の名前だ。
よく「アキラ」と読まれるけど、「アキ」。
女の名前みたいであまり好きじゃない。
「ん?」
急いでいるのであまり気の無い返事。
「帰りにお茶でも飲まない?」
「ゴメン。今日は駄目なんだ。また今度、今日の御礼に奢らせてくれ。」
別に松田の事が嫌いな訳じゃない。
今日は本当に大事な用事があった。
「そっか。じゃあまた今度。」
「悪いね。」
「いえいえ。」
じゃあ、と言って僕は会社を出た。
会社から電車で10分程の所に、僕の「用事」があった。
「TREE STAGE」
ここはこの辺りの若者なら誰もが知っている老舗。
この辺りでは最高峰と言われるライブハウス。
今日、ここでライブがある。
僕は随分前から楽しみにしていた。
見る側ではなく、演る側として。
控え室のドアを開ける。
どうやら僕が一番遅かったようだ。他のメンバーはもう全員集まっていた。
と言っても、メンバーは3人だが。
「遅ぇよ。来ないかと思って心配した。」
「悪い。」
中島透。
高校を卒業してから知り合った。
トオルのドラムは力強く、且つ、繊細と言えるほど正確な物だった。
「あれ?タカシは?」
真中崇。
中学からの友達で、トオルを連れて来た、バンドのリーダー。
トオルと同じ専門学校に通っている。
控え室にはタカシの姿は無く、ギターだけが部屋の壁に立て掛けられていた。
タカシのギターは真っ赤なジャガー。
その赤は、深く、ワインを思わせる。
僕達の音楽には、ジャガーではなく、レス・ポールがよく合った。
タカシも、一時期はレス・ポールにすれば良かったと嘆いていたが、
時を共有するにつれ、ジャガーを使いこなせる様になると、愛着が湧いたようだった。
少し癖のある、尖った音が、僕は好きだった。
「あぁ、タカシは…」
トオルが言い掛けると、タカシが控え室に入って来た。
「おう、誰かと思ったよ。やっと来たか。着替えろよ。リハやるぞ?」
「ああ。」
僕は仕事帰りにそのまま来たので、いつもの冴えないスーツを着ていた。
僕は急いでスーツを脱ぎ、Tシャツを着て、トレーナーと同じ様な生地のズボンを穿いた。
何で最近ズボンの事をパンツと呼ぶようになったんだろう?
下着と区別がつかなくなって、雑誌や小説等を読む時、たまに混乱する。
観客の居ないステージは静かだった。
静けさからか、ここの空気はきりりと冷え、尖っていた。
あと2時間もすると、この空気も湿気を多く含んだ、粘り気のある熱い物へと変わるだろう。
ステージの静寂の中に身を落としているといつも、時が止まっている様な錯覚に陥る。
悪い気分じゃない。
僕は大きく息を吸い込み、それを吐いた。
遠くからタカシの声がする。
マイクを通した声に混ざり、キーンとハウリングが響いた。
「じゃあ、取り敢えず全部通してみよう。」