第二話

「水」

あたしは本当に普通のOLだ。
他のOLと同じ様に、
普通に仕事をして、普通にファッション雑誌を読んで、
普通に音楽が好きで、普通に映画が好きで、
普通のOLはやっぱり、甘い物が好きなんだろう。


このパフェは少し大きい。
だがあたしにとってはなんて事も無い。ただのおやつに過ぎない。

一人でこの店に来る事は予想していなかった。
思い切って誘ってみたものの、断られた時の事は考えていなかった。
今思うと、坂下くんのスケジュールの事なんて頭に無かった。
週末なのだから、予定が入っていてもおかしくは無かったのに。
あたしは昔からたまにこういう事がある。
自分の事しか考えず、焦って計画が泡と消える。
しょっちゅうでない分、たまにこういう事があると余計に響く。

どうしてもパフェが食べたかった訳ではない。
夕御飯の前に、こんな物を食べる習慣はあたしには無い。
少しやけになっていたのかも?

断られてから、少し、呆然とした様な、そんな気分になった。
そして、吸い込まれるように、この店に入った。
この喫茶店はあたしの好きな喫茶店の中の一つだ。
何種類もあるパフェやケーキは、全部の種類を食べるのには、時間とお金が掛かる。
他の店で食事をし、デザートだけ食べに来る、なんて事もある。


この店を知ったのは入社して3ヶ月程経った頃。
職場や仕事にもある程度慣れ、休日の楽しみを少しずつ覚えて来た時期に、
この店に出逢った。

この店の前には「TREE STAGE」と言うライブハウスがあり、
以前、そこで行われたライブを見た帰りに、偶然見つけた。
あの時はライブ後の独特の熱気と高揚感に包まれ、体が水分と冷却を求めていた。

この店の名前は「ARTER」

以前勇気を出してウエイトレスに意味を聞いた所、
この店のマスターが勝手に作った英語だと言う。
意味は「画家」だそうだ。

「TREE STAGE」の前には、行列が出来ている。
あたしはライブを観るのが好きだ。
飛んだり、歌ったり、皆の発する熱気が混ざって一つに成る。
そんな状況が堪らない。
多くの人の心や体をそんな風に動かす事の出来る人を尊敬する。
だが、あたしは観客に留まっている。
あたしにはそんな才能は無い。
けれども、それはそれで充分に幸せなのだ。

行列を見ながら、当日券を買ってライブを見ようかと思った。
どんなバンドが出るのかは知らないが、こんな時は体を動かした方が良いかもしれない。

でも、そんな気分にはなれなかった。
パフェを食べ終え、珈琲を飲んだ後、もう少しだけ行列を見て、店を出た。

特に行く所も無いので、真っ直ぐ家に帰った。
「ARTER」は会社から電車で10分、駅から歩いて10分の所にあった。
また駅に戻って、電車に乗り、電車でまた5分。
会社から4つ、そしてこの駅の次の駅に、あたしの住むマンションがある。

電車は嫌いだ。

住む場所も環境も年代も全てバラバラの、不特定多数の人間が同じ空間に集まる。
こんな事って耐えれない。
こんな事って有り得ない。

一番前の車両の後ろの方の座席に座り、景色を眺める。
電車から見る景色はあまり楽しい物ではない。
実家に居た頃は、汽車に乗る事など殆ど無く、
たまに乗った時には、珍しくてきょろきょろしたものだ。

駅から歩いて10分。
バスを使っても良いのだが、無駄な出費と思い、歩く事にしている。
健康にも良い。今はまだ不安など無いが、もう5年もすれば体型や肌には
今の倍以上気を遣うことになるだろう。
その時の負担が少しでも軽くなるならそれも良い。

マンションは8階建て。
2LDKの部屋は、ゆったりと落ち着きがあり、広さの割りに家賃は安い。
それに結構綺麗で、気に入っている。
ドアがオートロックだと言う事以外は。
田舎育ちの癖か、鍵を部屋の中に置いたまま外に出てしまい、
これまで三回程大家さんのお世話になった。

家に帰って、まず水を一杯飲んだ。
水道を捻ればいくらでも出てくるのに、水を飲むにはお店で買わなければならない。
都会って何て不便。
あたしは水道水でも構わないのだが、母はミネラルウォーターを買えと言った。
正直、ミネラルウォーターと水道水の違いなんてあたしの舌では区別出来ない。

透明のグラスに入った透明な水を飲み干すと、
「よし。」
と一人呟き、服を脱ぎ、下着姿のまま、部屋着と替えの下着を持って浴室へ向かう。

お風呂は一日の疲れすら洗い流してくれる気がする。

湯船に浮かぶアヒルの人形を弄びながら、静かに考え事をするのが好きだ。
入社して3年が経つが、まだまだ新入社員扱いで、特に出来る事も少なく、雑務が殆どの毎日だ。

21世紀の日本。
近代的で、それでいて古典的で。
上辺だけの薄っぺらな島国は実は海に浮いているだけなのかも知れない。

男尊女卑で年功序列の縦社会。

反吐が出る。

先月、同期の女性社員が一人辞めた。
この一年で4人目になる。
今年の4月に入社した後輩も一人辞めた。

ちゃぷちゃぷと、心地いい音が、狭い浴室に響く。
少し寂しい様な、切ない気分になる。

先月辞めた彼女は、「他にもっと良い仕事がある筈だ」と言っていた。
あたしはこの国では、何処も同じと思ったが口にしなかった。
上司は「若者は弱い」と舌打ちした。
そんな上司にお茶を出すのはあたしの重大な仕事の内の一つ。

あたしは湯船から出て、少し熱めのシャワーを浴びた。
湯船の栓を抜き、洗面所へ出る。
鏡を見ると、二十歳になってまだ半年も経っていないあたしの身体は、
少し赤みがかって、雫を弾いていた。
バスタオルはわざと柔軟材を使っていないので、水分を良く吸い取る。
張りのある二の腕と、少々小振りかも知れないが形の良い胸を、あたしは気に入っていた。
この部分に触れた男はまだ一人だけ。
高校時代に付き合っていた男が、あたしの最初の男。

化粧水をよく馴染ませ、その後、マッサージするように乳液を塗り込む。
この顔も、いつか皺や染みが出来るのだろう。
大きくて、ほんの少し釣り上がった猫の様な目も気に入っている。
笑い皺が出来る事は無さそうだ。

結局、下着と部屋着は手に持ったまま、バスタオルを巻いて部屋に戻った。
部屋の中はあたし一人だが、かと言って裸のままで居る様な度胸は無い。

シャっ。

金属と金属の擦れる音と、布のはためく音を立てて、カーテンを開ける。
6階にあるこの部屋からは、夜景がよく見える。
この街はいつ暗くなるのだろう。
田舎から出て来たあたしにとって、この街は明る過ぎる。
初めの一週間で嫌気がさし、一ヵ月後にはもう慣れた。

カーテンを閉め、ミネラルウォーターを一杯。
ミネラルなんて目に見えない物はあたしの体のどの部分に必要なのか解らない。

下着に足を通し、部屋着に着替え、TVを付けた。
この地域はあたしの住んでいた地域よりも3つ程チャンネルが多い。
金曜日の夜は、見たい番組は無かった。
今日は早めに寝ようと思い、TVを消した。

寝る前にミネラルウォーターをもう一杯。
コップは明日の朝食後に纏めて洗ってしまおう。

ベッドに入り、携帯電話を充電する。
赤い光に眠れなかった夜もある。

メールが一件届いていた。
入浴中に届いたのだろう。
同じ会社の同期の男性、山下秀雄からのメールだった。

@@
今日は坂下が迷惑掛けたみたいだね。
ご苦労様。あいつはよく失敗するね。得意な事ってあるのかな?(笑)
あ、それより今度夕食でも食べに行かない?
色々話したいし、どうかな?
@@

あたしの方は、話す事なんて無かった。

この男はあまり好きじゃない。
見た目は良い男の部類に入るのだろう。
タイプでは無い。
自分に自信を持っていて、プライドの高い男。

軽そう。

寝ている事にして、無視してやろうかとも思ったが、
翌朝打つのも面倒なので今返す事にした。

@@
ありがとう。山下君もお疲れ様。
坂下くんは頑張ってるよ。それじゃあおやすみ。
@@

敢えて夕食の誘いに関して返事はしなかった。
理由無くハッキリと誘いを断るのは苦手。
察してくれたら良いのに。

電気を消して、布団に潜り込む。
朝起きたら、また仕事だ。
考えると嫌な気分になったので、早く眠りに着きたいと思った。
土曜も仕事なんて…お茶汲みなんて春の土曜日にする仕事ではない。
思ったより早く眠りに着いた様だった。


朝起きて、朝食を食べ、スーツに着替えて携帯を見ると、メールが入っていた。
一つは山下。

@@
松田さんにそんな風に言ってもらえる坂下が羨ましいよ。
って言うかもう寝るの!?早いね。
おやすみなさい。また明日逢いましょう。
所で夕食の件の返事が聞きたいんだけど…どうかな?
美味しいコースディナーを出す店を見付けたんだ。
少し値は張るけど、心配無用。今回は俺の奢りだから☆
美味しいワインでも飲んで日頃の疲れを吹き飛ばそう♪
@@

山下のメールは長い。嫌な気分。
もう一つのメールは、深夜3時?
坂下くんだ。

@@
昨日は折角誘ってくれたのにごめん。それじゃあおやすみ。
@@

山下の長いメールとのギャップに少し、笑った。
坂下くんにメールを返す。

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おはよう♪
昨日の事は気にしないで?
それじゃあ今日も頑張りましょう!!
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日差しは暖かく、しっかりと春を実感させる。
あたしは少しだけ早足で、駅までの道程を歩いた。