第二十話
「雨期」
あたしはぼんやりと空を見上げていた。
ビルの間から覗く夕日を窓際から見ながら、
何度も溜め息を漏らした。
アキとはあれ以来一切連絡を取っていない。
勿論、顔を合わせてもいない。
まるで昨日の事の様に、鮮明に脳裏に映る。
戸惑ったアキの顔。
掌いっぱいに広がる、痺れを伴なう痛み。
あの時の感触が、未だに残っているようにすら感じる。
もう、1年も、後悔し続けている。
また一つ、溜め息をついた。
カーテンを乱暴に閉め、台所で水を飲んだ。
少し落ち着く。
ミネラルは、ストレスに効くのではないだろうか。
ユミや雑誌を通じて、AiR-styleの話が、アキの話が入る。
全国ツアーにこの街は含まれていない。
ユミを問い詰めると、案の定、アキが拒んでいるそうだ。
アキは気まずくて拒んでいる、
ユミはそうフォローしたが、本当の所を知る術はあたしには無い。
直接アキに連絡を取る事は出来るが、そんな事は出来ない。
ユミやタカシくんに聞けば、あたしたちの解釈が食い違っていただけの事だった。
あの頃は一方的にアキが悪いと思っていたが、
今考えれば、悪いのはあたしの方かも知れない。
お酒や煙草に頼る事は出来なかった。
体質的に無理があるし、何よりそんな情けない事はしたくない。
あの一件以来、あたしは、身体の一部が抜け落ちた様だった。
ただ、仕事をこなし、御飯を食べ、寝る。
休日はあまり外に出なくなった。
惰性で生きる、意志を持たず。
こんなあたしをユミや山下くんは心配したが、
励まされてどうにかなるものでもないのは、あたしが一番よく解っていた。
これから毎年一番辛い季節になるであろう梅雨を、
何とか耐え抜き、夏の匂いが風に重なるようになって来た。
梅雨には、あたしの外も中も、雨期に入る。
コンポからは小さな音量で『エース』が流れている。
アルバムの中で、この曲だけは歌詞が載っていなかった。
何故だろうとぼんやり考えながら、未だに未練がましくAiR-styleのCDを全て買い揃えている自分を滑稽に思った。
ずり落ちたブラ紐を直すべきか悩んでいると、携帯が鳴った。
ユミだった。
「来週!AiR-styleのライブがあるよっ!」
雨を見ていた。
「アヤ、珈琲飲む?」
「うん、ありがと。」
「そこら辺座っててよ。」
あたしはテーブルの傍に腰を下ろした。
「あ、田中くん?」
テーブルの上のサボテンを見つけて突付いた。
アキは台所から、
「可愛いだろ?」
と笑った。
付き合って1週間が経ち、付き合い始めのぎこちない雰囲気も落ち着き始めた。
そして今日、初めてアキの家に来たのだった。
「ありがと。」
アキがテーブルに珈琲を置く。
「インスタントだけどね。」
「珈琲の違いなんてまだわかんないよ。」
笑うと、アキも柔らかく笑い返した。
ただそれだけが、嬉しかった。
その日は、ただ、ゆっくりと過ごした。
アキは、あたしの知らない曲を次々と流した。
「これは何て言う人?」
「ん?これはね…。」
こんな会話で、充分満ち足りた。
アキはおもむろにカーテンを開けた。
もう、夕陽が沈みかけているのだろう、雨の所為で判別は難しかったが、
徐々に、重く、寂しさを帯びた闇が忍び寄って来た。
ふと、アキに目をやると、亜貴は、窓の外を、じっと、見つめていた。
どうしたの?
「どうしたの?」
アキは、ゆっくりとあたしの方を向いた。
なんて寂しそうな顔をしているの?
アキは、そっと呟いた。
「僕、このままで良いのかな…?」
あたしは、アキから目を離せなかった。
「どう言う事?」
アキは自嘲気味に笑った。
「タカシも、トオルも、来年卒業するだろ?そうしたら、
いつでもプロになれる。でも、僕には卒業なんて無い。
続けるか、辞めるか。二択しか無いんだよ。」
そうなのだ。
アキは、仕事を辞めて、ミュージシャンとしての道を新たに歩むか、
それとも、このまま仕事を続け、バンド活動はあくまでも趣味に留めるか。
この葛藤と戦っているのだった。
しかし、そんな大事な事、あたしの一存で決める事ではない。
「あたしには決められない。そりゃ、バンドやってるアキが一番良い顔してる。
でも、バンドでずっと生活出来る保障なんて無い…
仕事を続けるのは、安全だけど、でも後悔するだろうし…。」
あたしはしどろもどろ、答えた。
アキは小さく微笑んで、
「ごめん。いきなりこんな事…。」
「ううん。大事な事だもん。」
「ありがとう。」
アキは田中君を突付いて、寂しげに笑った。
あたしは、そんなアキの手に、自分の手を重ねた。
アキがあたしを見る。
あたしは、じっと、重なった手を見ている。
初恋と言う訳でも無いのに、手を握った程度で高鳴る胸。
雨音が強まった。
二人は言葉を交わさず、部屋は雨音のノイズに支配されていた。
アキは床に寝転がった。
あたしも、その隣に寝転がった。
「ありがとう。」
アキが言う。
「何が?」
聞くと、
「今日、来てくれて。」
あたしは黙ってしまった。
アキと手を繋ぐのは、今、この瞬間が初めてなのだと気付いたからだ。
「アヤ…?」
アキは何か言おうとしたが、あたしはそれを遮った。
「帰りたくない。」
そしてこの夜、あたしはアキと初めて一緒の夜を過した。
互いの身体には一切触れず、ただ、手を繋いでいた。
雨音がうるさかった。
初めて、共に過ごす夜に、初めはやはり緊張した。
今更、そんな歳でも無い癖に。
アルコールも入り、次第に緊張も解けて来た。
普段通り会話が出来る位に回復すると、もう随分な時間になっていた。
お酒の所為か、緊張の所為か、うつらうつらしているあたしに、
「…寝ようか?」
そう言って、テーブルを片付けるアキ。
「…ごめん。」
「良いよ。布団、一つしかないけど…。」
「そんな事気にしない。」
言うと、アキは優しく笑った。
「ライブ!?今ツアー中でしょ?」
言うと、
「急に決まったんだって!…ってか、タカシとトオルさんが坂下さん説得したらしいよ。」
「…アキは…納得したの?」
恐る恐る聞くと、
「そこまでは聞いてない。」
「納得して無いなら、そんな状態で来て欲しくない…。」
あたしが漏らすと、ユミは少し怒った。
「あんた達だけの問題じゃないの。あたしだってタカシに逢いたいし、
メグさんだってトオルさんに逢いたがってるんだから。」
それを言われると、何も言えない。
あたしはユミの小言をぼんやり聞き、通話を終えた。
アキが来る。
そう思うと、自然に胸が高鳴った。
期待と不安。
たったそれだけがあたしを締め付ける。
部屋の天井を見上げながらブラ紐を直した。
そして、心の中で叫んだ。
アキ、ごめんね。