第二十一話
「涙」
正直、最初はアヤの事は苦手だった。
積極的な人は誰であろうと不得手だった。
だがその積極性は好意から来るものだとはっきりとわかった。
皮肉にもそれ程までに、アヤは積極的だったのだ。
あれから夏が来て、秋を見て、冬を越えて、春が巡り、また、雨の多くなる季節が来た。
「SUGAR
SONG」発売から1年が経とうとしていた。
タカシもトオルも一応無事に卒業していた。
そう。後は僕だった。
辞める覚悟は出来ていた。僕だけならいつでも辞めれる。
僕を会社に留める最後の砦…両親だ。
そして僕は今、両親の前に居る。
父は焼酎を呑み、母はその横で僕を見ている。
「それで?どうしたいんだ?」
「は?今まで何度も言ったでしょ?会社を辞めて、バンドをやりたいんだ。」
言うと、母は鼻で笑った。
「それで生活出来ると思ってるの?一生食べて行けるの?」
「それはわからないよ。でもそんな事言ってたらずっとこのままだ。」
「いいじゃん、このままで。安定した収入が入って、年に2回ボーナスがあって、こんな良い所他に無いよ?あんたがバンドやって、失敗して帰って来てももう仕事なんか無いよ?」
「失敗するとは限らないだろ?」
「あんたねぇ、よく考えなさいよ。音楽やってる人が世の中に何人いるのよ?何枚CDが出てんのよ?失敗するのが関の山だって。」
「何で言い切れるんだよ?」
「もう…父さんも何か言って?」
父はおもむろに僕を見据えた。
「父さんも若い頃は夢があった。でも、生活出来んだろう?だから今の仕事をしてる。家族を養って行かにゃならん。なぁ、趣味の範囲で出来んもんか?仕事の合間に、息抜きでやれば良かろう?」
父の目は深く、底が見えない。
それでも僕は抵抗した。
「無理だ。もうとっくに趣味の域を超えてるよ。生活だってどうにかするさ。バイトしながらでも良い。」
「結婚したらどうするつもりだ?父親がフリーターだなんて、冗談にもならんぞ?」
「バンドが安定しなきゃ結婚なんてしない。会社だって僕はいつか辞めるつもりだから、会社に勤めてる以上、結婚なんて出来ない。」
母が漏らした。
「音楽で食べて行くなんてね、ほんの一握りの、限られた人にしか出来ないんだよ?」
僕は立ち上がった。
「じゃぁ、僕は限られた人じゃないって事?」
僕だけならともかく、AiR-styleは、僕達3人は負けない。
「CDも出した。インディーズにしてはかなり売れてるんだよ?」
「一発屋なんていっぱいいるよ?」
母は悲しそうに僕を見上げた。
「次が売れないって事?じゃぁ1枚目は聴いた?」
「あんたらの音楽はわからんよ。」
「ほらな?聴く気が無いんだろ?僕が音楽やってるのすら否定するんだろ?音楽が僕に会社を辞めさせると思ってる。」
「あんたを心配してんの。」
「もう、限界だよ。チャンスなんだ。こんなチャンスもう無いかも知れない。」
「お願いだから続けて?せめて、もう5年…3年で良いから…。」
母は泣き出した。
胸が痛む。僕が今、母を泣かせているのだ。
でも、ここで折れる訳には行かない。
「解ってるよ。それで3年経ったら『3年経てば解ってくれると思った。』とか言って辞めさせないつもりだろ?もういいよ。」
父はゆっくりと立ち上がった。
父の身長を追い抜いたのはいつだったろうか…。
父より背は高くても、父より大きくなった気はまるでしない。
「お前、やるからには絶対に途中でやめるなよ?俺に外車でも…いや、家でも買ってやれる位になれ。それまで帰って来るな。あと、俺が良いと言うまで坂下の姓も名乗るな。」
「父さん何言ってんの?」
母は父の隣に立ち上がった。
「もういいだろ。」
「良くないわよ。」
「気持ちは痛い程解るからさ。な?母さんも知ってるだろ?」
父が言うと、母は黙り込んだ。
父には昔、夢があった。
それがなんだったのかは、教えてくれない。
いくら聞いても、父は照れながら焼酎を呑むだけだった。
「父さん…。」
父に近寄った瞬間、厚くて大きい、父の手が僕の頬を張った。
その手は、僕の憧れでもあった。
僕は畳に突っ伏した。
父を見上げると、ニカッと笑った。
「餞別だ。とっとけ。」
僕は頬を押さえて立ち上がり、言った。
「悪いけど、その条件は飲めない。」
「は?何故?」
僕の頬は熱を持った。
「『坂下』である事は僕にとって誇りだ。僕は坂下明だ。」
言うと父は鼻で笑って、背を向けた。
「好きにしろよ。」
僕は涙を流した。
頬が痛むからじゃない。
「ありがとうございます!」
父の背に御辞儀した、
父は不慣れな手つきで台所のCDラジカセのスイッチを押した。
流れて来たのは「SUGAR
SONG」だった。
母が僕に近寄る。
「あんたこの曲が凄い売れたって言ったよね?」
母は襖を開けた。
中には大量のCDがあった。
50枚はあるんじゃないか…?
全て「SUGAR
SONG」だった。
「父さん…。」
「お前も呑め。」
父は照れながら言った。
僕は父と焼酎を呑み交わした。
父は、泉谷しげるのファンだった。
これまでで一番沁みる酒を1杯だけ呑み、僕は見慣れた街を歩き出した。
僕が育った場所。
僕のアパートも、会社もさほど離れていないが、やはり懐かしく感じる。
父は、あと1ヵ月は会社を続けろと言った。
この1ヵ月で、今まで見えなかった会社の良さや、やりがいを見付け、
きちんと仕事を全うしてから辞表を出せと言う。
5月も半ばなので、今すぐ辞めると会社に迷惑がかかると言う意図もあった。
僕はすぐにタカシに電話した。
「僕、会社辞める事にした。」
「大丈夫なのか?」
「ああ、親と話して来た。」
「そうか。良かったな。」
「ああ。」
タカシは高野と別れた。
それから少し、元気が無い。
別れた理由は、タカシがバンドばかりやっているから。だそうだ。
それには僕もトオルも、少し責任を感じていたが、アヤは高野に我慢が足りないと言った。
僕は電話を切って、家路についた。
「ただいま。」
「おかえり…。どうだった?」
アヤは心配そうに言った。
僕が両親と話している間、僕の家で待っていてくれたのだ。
僕は笑顔で言った。
「やったよ。」
アヤも笑った。
「良かったね。でも、これからが大変だよ?」
「うん。わかってる。ありがとう。」
僕等は缶ビールで乾杯した。
「会社はいつ辞めるの?」
「来月末には辞めようと思ってる。」
僕は父との約束を説明した。
「そっか。じゃあアキと同じ職場で働けるのも後1ヶ月とちょっとだね。」
「うん。」
「送別会、する?」
「良いよ。会社の人ちょっと苦手だし。」
「だよね。じゃあまた仲間内でやろっか?」
「うん…でも、タカシと高野さんはいいのかな?」
「良いよ。ユミも何だかんだ言ってまだタカシくんの事好きなんだから。」
「そうなんだ…。」
僕は田中を突付いた。
アヤも、田中を突付いた。
「ねぇ、ベース弾いて?」
アヤは突然言い出した。
「え?何で?」
「だってライブ以外で弾いてる所見た事無い。」
「恥ずかしいよ。」
「良いでしょ?」
僕は渋々ベースを出した。
弾け、と言われて、いざ弾くとなると、何を弾いて良いか分からない。
「何弾いて欲しいの?」
「何でも良いよ?」
僕は適当に、弾き始めた。
ジャズの様なリズムで、ゆったりと、流れる様に。
これなら、思い付くままに弾けば、永遠に繰り返せる。
「何て曲?」
「適当。」
「凄いね。」
暫く弾いていた。ふと、アヤを見ると、泣いていた。
「え…?どうしたの?」
アヤは慌てて涙を拭った。
「ううん。なんでもない。」
「なんでもない…って。」
「ほんとに何でも無いの。あたしも何で泣いてるか解んないんだ。」
「…大丈夫?」
「うん。いきなり涙が出て来て…。ごめんね。」
「いや、良いけど。」
僕はベースを置いた。
アヤの頭を撫でてあげた。
「いや、ほんとに何でも無いから。気にしないでよ。」
「うん。」
結局、何でアヤが泣いているのかは、僕もアヤも解らなかった。
隠しているのではなく、アヤは本当に解らない様子だった。
その後アヤは泣き止み、外で早めの晩御飯を食べて、別れた。
僕は一人、街を歩いていた。
親の了解を得られた事に開放感を感じていた。
ビールを買おうと、コンビニに寄った。
少し、漫画を立ち読みして、つまみにしようと、お菓子を選び、ビールに手を伸ばすと、
隣に、よく知った男が立っていた。
「…?GONGON?」
「えっ!?」
GONGONは少し驚いてこっちを向いた。
「B−DASHのGONGONさんですよね?」
「うん。そうだよ。」
「僕もバンドやってるんですよ。」
「AiR-styleのボーカルやってるよね?」
「知ってるの?」
「うん。聴いたよ。」
「今、何やってるの?」
「そろそろレコーディングが始まるんだ。」
「へぇ〜。良いね。あ、僕坂下アキって言うんだ。よろしく。」
「僕はGONGONって言うんだ。よろしく。」
僕は笑った。
GONGONは続けた。
「アキくんは、CD出さないの?」
「一枚出したんだけどね、二枚目はまだだよ。」
「そうなんだ。」
「うん。」
GONGONはビールを手に取った。
「今から呑むの?」
「うん。ビール呑むよ。」
「シラフマン目指してるんじゃないの?」
「頑張ってるよ。」
二人で笑った。
「アキくんも今から呑むの?」
「うん。一緒に呑む?」
「良いね。呑んじゃおう。」
僕等はビールとお菓子をぶら下げて、公園へ向かった。