第二十三話

「拳」

タカシくんが来ない事で、ユミはすっかり肩を落として居た。
「こうなったらもう泪酒だよ…。」
力無く笑うユミを見かねて、
遂にトオルくんが電話した。

短くも長くもないやり取りの後、
トオルくんは親指を立てた。

ユミは涙目で笑った。

好き合って居るのに別れ、溝が生まれる。
別に珍しく無い恋愛のスタイルだが、
どうして人生と恋愛はこうも不可解なのかと
首を傾げざるを得ない。

あたしはアキに目を向けた。
目が合うと、優しく笑い掛けてくれた。

ユミには悪いが、あたし達がユミ達の様になるなど、想像も出来ない。
優越感では無いが、嬉しかった。

タカシくんが来ると、少しの間だけ場が静まったが、
すぐにいつもの調子に戻った。


「じゃぁ、ユミちゃんはタカシメンの事をDO思ってんのかなぁ?」
トオルくんは割り箸をマイクに見立て、ユミに向ける。
「もう、トオルさん酔ってんでしょー?」
ユミは笑いながらマイクを手で塞ぐ。
普段少し無口気味なトオルくんは酔うとこうなる。
「いーからいーから、このマイカフォンに思いの丈をぶつけてくれよ!」
「ユミ〜?あたしも聞きたいなぁ〜。」
あたしも言う。
「もぅ…好きです…あたしが我が儘でした!」
ユミは途切れ途切れに小さく呟いた。
皆が歓声を上げる。
「タカシメンはぁ〜?」
トシくんがタカシくんを突っつく。
タカシくんは勢い良く立ち上がった。
「マイラバー!!」
言ってユミに抱きついた。
あたし達はただただ笑って居た。

真面目に話し合って寄りを戻すよりも、
こうやってふざけ合った方が気が楽と言う物だ。

「そう言えばそろそろ新曲出すんでしょ?」
メグミさんが言う。

そう。
SUGAR SONGの売れ行きが好評で、すぐに2枚目を出す話は来たらしいのだが、
それはAiR-style側が断ったらしい。
理由を聞くと、やはり学校や会社との両立が難しく、
焦っても結局は音楽も、日常も中途半端になってしまうのでは、
と考えたからだそうだ。

「新曲はまだ出来てないなぁ…そろそろ作り出さないとな。」
タカシくんが言う。

タカシくんとトオルくんが卒業したと同時に再び2枚目の話が来たらしい。
どうやらレコード会社の担当の人がAiR-styleをえらく気に入っているらしいのだ。

「アキ、良い曲ある?」
タカシくんは頬杖をついた。
「うーん…あるにはあるけどちょっと弱いんだよね。…つーか次も僕が作るの?」
「いや、皆だけど、やっぱベースになる曲はお前が良いよ。」

そしてAiR-styleの3人は音楽の話で盛り上がり出した。
コウさんやトシくん、山下くんもAiR-styleの話に加わった。

こうなると着いて行けないので、あたしはメグミさんの隣に座った。


「メグさんはどうなの?トオルさんと。」
「ウチ?ウチらはいつも通りよ。もう長いしね。今更他の恋愛するのも疲れるし。」
「へぇ。なんか大人。」
「そんなんじゃないよ。」
メグさんは少し照れて言った。
「アヤちゃんはどうなん?付き合って1年位でしょ?飽きたりしない?」
「あたし達はゆっくり付き合ってるから。それにアキの空気って何か飽きないし。」
「あ、解るかも。坂下さんって独特の空気出してるよね?」
ユミはカシスソーダを一口飲んだ。

アキの空気。
決して掴む事の出来ない雲の様に、
掌から零れ落ちてしまう水の様に、
落ち着き、静かに大きく佇まう山の様に。

掴み所の無い空気を纏うアキを見ると、自然と心が鎮まり、
冷静なあたしで居られる。
そんなアキの空気に苛々する事もあるが、大抵の場合はあたしが悪い。
結局は反省し、後悔し、カルシウムやミネラルが足りないのだと、
ミネラルウォーターを飲んで落ち着く。
新しい習慣があたしには出来た。

その後2時間程呑み続け、今日は解散と言う事になった。

トオルくんとコウさんとトシくんと山下くんが一緒に、
メグさんは一人、タカシくんとユミが一緒に、
そしてあたしとアキが一緒に帰る。

あたしはこのままアキの家に泊まる予定だったので、
みんなとは居酒屋の前で別れた。

「みんな喜んでくれてたね。」
「うん。父さんもわかってくれたよ。」
「何か、本格的にAiR-styleが動き出すね。」
言うと、アキは少し真面目な顔をして、
「うん。これからが大変だ。アヤにも迷惑掛けると思うけど…。」
「ううん。あたしは全然大丈夫。」
アキは笑顔を見せた。
「ありがとう。」

少し勇気を出して、腕を組んで歩いた。
勿論初めてと言う訳ではないが、腕を組むときはやはり緊張する。
アキは気にしていない様子だが、内心はどう思っているのか…。

「すいませ〜ん。」
突然後から呼び止められ、驚いて腕を放した。
振り返ると、知らない男が三人笑っていた。
「え?」
あたしが言うと、
「ちょっとお聞きしたいんですけど…。」
男三人は、大きなTシャツに、太いパンツ、何本か鎖を首に掛けていた。
サングラスの男がチラチラとアキを見ている。

あぁ、AiR-styleのファンの子かな?

ヘアバンドを2本頭につけた男が
「AiR-styleのアキさんですよね?」
と言い、握手を求めた。

やっぱりファンの子だ。
「あァ、どうも。」
「金持ってます?」
「え?」
男三人は笑顔のままだ。
「だから、金ですよ。ちょっと貸して欲しいんですけど。」

あたしは少しずつ危険を感じ始めていた。
「アキ、行こ?」
アキの腕を引っ張る。
「ちょっと待ってくださいよ。良いじゃないですか。ねぇ。今いくら持ってるんですか?」
「いや、お金はそんなに持って無いよ。もう良いかな?帰るから。」
アキも気付いている様だ。この人達はちょっと危ない。
「まぁ、ちょっと来いよ。」
ヘアバンドの男はアキを強引に引っ張る。
「ちょっと!やめてくださいよ!!」
あたしは声を荒げた。
それでも人目につかない横道に入り、男達は続けた。
「ねぇ、いいからいくら持ってんの?CD売れてんでしょ?」
「だからマジで無いんだって。」
アキは苦笑いで言う。
「ヘラヘラすんなよ。さっさと出せば良いんだよ。」
サングラスの男は急に真顔で言い出した。

「スイマセン!!誰か!!」
あたしは大声で叫んだ。
ヘアバンドの男があたしに近寄る。
「黙ってろ!殴るぞテメェ!」
しかしあたしは聞かない。
「誰か!!助けてください!!」
大声で叫び続ける。路地を横切る人々は、あたし達に一瞥だけくれ、
するりと街へ消えてしまう。
都会の人間の何と冷たい事か。
「誰か!!」
どうにかして助けを呼ぼうと必死だったあたしの顔に、鈍痛が走った。
左頬に痺れるような痛み。一瞬何が起こったか解らなかった。

あたしは地面に倒れた。
口の中が切れた。左頬が熱を持っている。
信じられない。
太いピアスをした男があたしの顔を殴った。
「うるせぇんだよ!!ちょっと黙ってろ!!」
サングラスとヘアバンドは笑っている。l


あたしは目を見開いた。


ピアスの男は宙に浮いた。

え?
「え?」

頬を押さえながら、ただ、呆然と見るしかなかった。
ピアスの男は勢いよく倒れ、気を失っている。

アキ?

「テメェ何してんだコラァ!!」
サングラスの男は叫んだ。
アキはただ黙って、男のサングラスの上から鼻を殴った。
顔を押さえている男の腹を蹴る。
ヘアバンドの男がアキに殴りかかった。
アキは頬を殴られ、よろけた。
サングラスの男は腹を押さえながらのた打ち回っている。
再びアキの顔が殴られる。
アキはヘアバンドの男のみぞおちを殴り、続けて顔を数回殴った。
男の顔と、アキの拳が血で染まる。

もうやめて!!

叫びは、言葉に成らなければ届かない。

三人の男は倒れた。
アキは口から血を流し、あたしを振り返った。

一歩ずつあたしに近寄るアキを、真っ直ぐ見る事が出来なかった。
言葉を失っていた。

アキの目が見れない、今はアキの声も聞きたくない。
あたしはただ、血で染まった拳に目を奪われていた。

頬を伝って、流れた涙が唇の端の傷に触れた。
痛みの中で、涙の味が血の味に混ざった。

そして、アキに抱き締められた。