第二十六話

「前進」

一人で居ると、どうしてもアヤの事を思い出してしまう。

僕は一人、喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
この喫茶店のケーキは、アヤと二人で全種類食べ尽くした。
新作が出る度に味見し、二人で無責任に批評して楽しんだ。

僕の部屋から街の中の至る所、例えば居酒屋やデパートや、
そしてこの喫茶店までも…全てにアヤとの思い出が多過ぎる。
ふとした事で思い出し、その度に僕の表面から覇気が剥がれ落ちて行く。
この一年が夢幻であったかの様に、予想以上に僕は憔悴し切っていた。
ただそれは、一人の時だけだ。



「Some Strike」の発売日が決まり、
それと同時にアルバム制作の話が舞い込んだ。
日に日に忙しくなり、他の事を考える余裕等無かった。
だからこそ余計に、一人になった時に思い出してしまう。

「Some Strike」に関して僕達に出来る事は既に無く、
発売を待つだけだった。
カップリングも、既に形が出来ている「rain」と「Line Over」にしたので、
特に問題無くレコーディング出来た。
後は森さん達レコード会社側に任せるだけ。
広報や色んな商業作戦は僕達には勤まらない。


そんな僕達に、思い掛けない話が入るのは、
アヤの大好きだったブルーベリーのケーキが無くなって、
太陽が西の方で橙に燃える時の事だ。


僕は銀色のフォークを置き、アイスココアを一口飲んだ。
透明のアクリルボードで隔離された、人権の無い喫煙席。
しかしそれでも喫煙者にとっては、喫煙席があるだけマシと言う物だ。
僕は火を点けた煙草を見ながら少しだけ笑った。
昼下がり、外回りのセールスマンだろうか、
外には、スーツを着た会社員が目立つ。
僕はまだバイトもしていないので、平日のこんな時間を自由に出来た。
以前なら、この時間はあの川原で煙草をふかしていただろう。
アヤとの付き合いが始まった場所…。
あの芝生も、橋梁から見下ろす細やかなせせらぎも、全てが懐かしい。

突然、アヤに電話を掛けようと思い立った。

勇気が出なくて、今まで掛けられなかったが、
急にアヤの声が聴きたくなった。
急いで鞄から携帯電話を出すと、
着信が入っていた。
メロディを鳴らさないので気付かない事がよくある。

履歴を見ると、タカシだった。
3回も掛けて来ている。
喫茶店を出て、電話すると、すぐに繋がった。
「あ、タカシ?電話しただろ?どうした?」
「だから着メロ鳴らせって言ってんだろ?」
「はいはいごめんごめん。で?何?」
「うわ、反省してねぇ。あんな、さっき森さんから連絡があったんだけど、
夕方、アルバムの事でハイスピンのスタッフと打ち合せしないかって。
大丈夫だろ?」
ハイスピンとは、僕達のCDを出してくれるレコード会社で、
前回のSUGAR SONGもハイスピンレコードから出した。
「ああ。何処でやんの?」
「それはまだ決めてない。晩飯でも食いながら…って感じらしいから。」
「ん。わかった。」
「でさ、先に3人で集まって、俺達のイメージとか、そういうのを話し合わない?」
「そうだね。いいよ。今から?」
「うん。森さん達とは6時の待ち合わせだから、今から…そうだな、お前今何処?」
「いつものカフェだけど。」
「じゃ、そこ行くよ。」
わかった、と言って電話を切り、 ケーキの続きを食べ始めた。

30分で3人が揃った。
「いきなりだけど、アルバムについて。どんな感じで行きたい?」
タカシが言うと、
「アバウトだなぁ…。」
トオルが苦笑いした。
「前に出した曲は外そう。」
僕は言った。
「は!?お前そうすると全部イチから作らなきゃいけねぇぞ?」
「いや、CDに入ってる曲を外すだけだから、ライブでやってた他の曲は入れようよ。」
「成程ねぇ…でもなんで?」
「どんどん新しい僕達を見せたいんだ。僕が見たいってのもあるし…。」
「ま、俺達は構わないよ。」
「ありがとう。」
正直な、僕の気持ちだった。
アヤの事だけではなく、過去を引きずってばかりでは駄目だと思っていた。
前進し続けなければ。

そして、曲の雰囲気やテーマについて話し合い、随分深く、細かい所まで決めた。
ハイスピンの人と話し合わなくても、いつでも作り始めれる。
そんな勢いだった。

5時半を少し過ぎた頃、タカシの携帯に着信があった。

場所が決まり、あちらも都合がつくと言う事で、少し早めに集まる事になった。
喫茶店から程近い居酒屋で集まると、初対面の人を森さんに紹介された。
「こいつはハイスピンレコードの企画部の戸川、
で、こちらは今度のアルバムのエンジニアをしてくれる、水川さん。」
紹介された順に低頭する。
「戸川です。イベントや広報の企画を主にやってます。
アルバムが完成したら、もちろんレコ発ツアーを計画してるから。宜しく。」
「水川です。レコーディングを一緒にやってく訳だけど、
まず言いたいのは、僕はAiR-styleが好きだ。君たちのセンスに感動した。
だから、AiR-styleの音は変えるつもりは無い。君達の意見を最優先にしたい。
良い物を作ろう。」

戸川さんと水川さんはとても良い人で、
僕達が先程纏めたイメージを真剣に聞いてくれた。

「それで、レコーディングなんだけど、ハイスピン経営のスタジオでやりたいんだ。」
森さんが言う。
「え?Some Strike録った所ですよね?」
タカシが確認するが、
「いや、あそこじゃなくて、レーベルの直営のレコーディングスタジオなんだけど、少し遠いんだ。」
「何処です?」
森さんはその場所を告げた。

本当に遠い。
「マジですか?それって通えないですよね?」
「そうなんだよ。悪いけど、レコーディングの間はこっちで用意するホテルに泊まってもらえるかな?」
森さんが言うと、戸川さんが付け足した。
「レコ発ツアーが終わるまでかな?」

地元を離れる。
予想すらしてなかった。

「でも、ホテル用意してくれたり、なんでそんなに良くしてくれるんですか?」
僕が聞くと、森さんは笑って
「ウチの社長が若くてさ、エスタをかなり気に入ってくれてるんだよね。利益とか関係無しで。」

「どうする?」
トオルが言う。
「ちょっと遠過ぎるよなぁ?」
タカシが頭を抱える。
「でもそんな事言ってらんないだろ?せっかくのチャンスなんだしさ。」
僕が言うと、
「そうだよな。そんな長い事居る訳じゃないし。」

「じゃぁそう言う事で、ごめんね。でも器材なんかはそのスタジオの方が数倍良いから。」
「いや、本当、良くしてもらって…。」
僕達は軽く頭を下げた。
そのまま軽く打ち合せをしながら、呑み、9時には店を出た。

駅で別れる事になり、僕は一人で電車に乗る事になった。
一人になって考えるのは、やはりアヤの事だった。
この街を離れるとなると、アヤには当分逢えそうも無い。
昼に、電話を掛け損ねた事を思い出した。
そしてまた、鞄から携帯を取り出し、開いた。
待ち受け画面はあの川原。
川と橋と太陽が写っていて、緑がとても綺麗な写真だ。
待ち受け画面をずっと見つめたまま、僕は携帯を閉じた。
今更何を言えば良いというのだ。

電車を降りて、改札口をくぐった。

夜道を歩きながら、何も告げずに行こうと決めた。
さよなら。なんて言えないし、言うのもおかしい。
二度と逢えない訳でも無いし、また逢う約束もしていない。

僕は言葉を持たず、行くんだ。

マンションのドアに鍵を差し込む。
このドアを開けば、また新しい世界が広がる。
一歩ずつ。着実に、進み続けなければ。

僕は勢いよく鍵を回した。