第二十七話
「飲ム」
これ以上休み続けるとクビになる。
あたしは1ヵ月振りに出勤した。
周りの目を意識しないようにしても、やはり刺さる視線が痛かった。
真っ先に駆け寄って来たのは、相変わらず出勤の遅いユミだった。
「アヤ!?アンタ大丈夫だったの!?全然連絡しないし電話出ないし家行っても…
まぁ、久し振りに顔が見れたからいいんだけど…。」
会社だと言うのに敬語を忘れている。
「ユミごめん。心配かけて…でも、考え方を変えようと思って…
アキとも…もう一回話したいし…。」
「アヤ…知らないの?」
「何を?」
「AiR-style…レコーディングの為に緑区に行ったんだよ…?」
「え…?緑区って…灯市の…?」
ユミは頷いた。
灯市の緑区と言えば、電車でも半日はかかる…。
こんな中途半端な都会ではなく、本物の都会。
この国の中心部にある有名な区域の一つ。
「…そっか…。」
あたしが俯くと、
「逢いに行く?」
ユミは心配そうに言った。
「ううん。いい。一生逢えない訳じゃないし、あたしもまだまだ考えたいし。
邪魔になったらやだしね。」
強がりじゃない。
実際今アキに逢ってもどうして良いか判らないし、
まだ、アキのあの行動を許せる自信は無い。
1ヵ月経っても、まだ整理出来ずに居た。
その日はユミと一緒に帰った。
ユミはウチに泊まって呑むと言う。
「散らかってるよ?」
「いーよいーよ。」
部屋の電気を付けると、
1ヵ月間で溜まったゴミがあたし達を迎えた。
ユミは絶句していた。
無理も無い。片付ける意志など全く無かったから。
「なに…?これ。」
恐る恐る、と言った感じでユミは口を開いた。
「ごめんごめん。なんせ1ヵ月間掃除してなかったからさ。」
少し恥ずかしくなり、頭を掻くと、
「違うわよ!なんでこんなにペットボトルがあんのよ!?」
と、ユミはあたしの肩を掴んだ。
「え…?」
確かにゴミの殆どは空になったミネラルウォーターのボトルだ。
部屋の殆どを空ボトルが占めている。
数百本はあるだろうか…しかし生活する上では仕方ない。
「あんたこんなに水飲んでたの?」
「まさか。」
「じゃぁなんでこんなにあんの?」
何を言っているのだろう?
確かに生活スタイルが変わったが、少し考えれば判るだろうに。
「ただ全部ミネラルウォーターを使うようになっただけだよ?」
「全部?」
「飲み水でしょ?お風呂でしょ?洗濯と…御飯作るのにもだし、手を洗うのと、あとは…あ、洗顔。あとは…」
「どうしたのあんた。」
「え?」
見るとユミは酷く真剣な顔をしていた。
「なんでそんなミネラルウォーターにこだわってんの?」
少し恥ずかしくて、また頭を掻いた。
「あたしね、あの頃何か苛々してて、怒りっぽくなってて、ミネラルウォーター飲むと落ち着いたんだよね。何かミネラルが足りなかったみたい。」
言って笑うと、
「そんなレベルじゃないでしょ!?このボトルの数は尋常じゃない。
御飯は解るけどお風呂や洗顔に使うなんておかしいよ!ちょっと異常だよ!?」
ユミの言葉に戸惑った。
尋常じゃない…?
異常!?
冗談でしょ?
「冗談でしょ?」
言って、また笑い掛けたが、
「冗談であってほしいわ。」
ユミは悲しそうに顔を背けた。
「何で!?何がいけないの!?」
あたしは訳も解らず叫んだ。
「こんなの普通じゃない…あたし、心配なんだよ。アヤ…どうしちゃったの?」
あたしは黙り込んだ…確かにミネラルウォーターに固執し過ぎなのかも知れないが、
こんな風に言われる様な事だろうか?
「と…取り敢えず上がって?玄関じゃあなんだし…。」
ペットボトルを掻き分け、テーブル脇に座った。
「何か…飲む?」
「どーせ水でしょ?」
ユミは冷たく吐き捨てた。
その言葉に、あたしは再び黙り込んだ。
「ねぇ…アヤ…、病院行こう?」
「何でっ!?」
信じられない!!
何を言い出すんだ!!
「病気でも無いのに何で病院なんか行かなくちゃなんないの!?」
「病気だよ!!アヤおかしいよ!!」
「ふざけないで!!そんな事言うならもう帰ってよ!!」
「一回で良いから行こう!!」
あたしはユミを強引に立たせ、
「もう帰って!!帰って!帰って!」
と、乱暴に玄関に追いやった。
「あんたはおかしい!!病院に行くべきだ!」
尚も叫ぶユミを、暗い外へ追い出した。
乱暴に玄関のドアを閉めて鍵を掛け、そのドアに背中からもたれ掛かった。
「アヤ…。」
ユミはぽつりと言ったが、その後の言葉は無く、
暫らくすると、かつかつとヒールを鳴らして帰って行った。
あたしはその音が遠ざかると、背中をドアに引きずりながら、崩れ落ちた。
泣いた。
ユミにあんな風に言われるとは思わなかった。
よりにもよって病院だなんて…ユミはあたしが嫌いになったのだろうか?
あたしに愛想を尽かしてしまったのだろうか…。
数時間、原因となったミネラルウォーターを飲みながら泣いて、
お風呂に入ろうと立ち上がった。
タオルと下着と2リットルボトルを3本抱えてお風呂場へ向かった。
今日は湯槽にゆっくり浸かる気分ではない…。
ボトルの蓋を開け、髪を流した。
シャンプーに少し水を加え、髪に付けて泡立てる。
十分に泡立てて洗い、ボトルを頭の上で傾けた。
髪を流して、同じ様にトリートメントする。
他の部位も同様にして洗った。
最後に全身に水を浴びて、お風呂場を出た。
洗面台で身体を拭き、下着と部屋着を身に付けた。
水を顔に馴染ませ、その上から化粧水を軽く付ける。
お風呂から上がると、まずコップ一杯の水を飲んだ。
カラカラとボトルを掻き分け、座り込んで、また泣いた。
ユミの表情…。
幽霊か何かでも見た様に、恐怖を滲ませていた。
溜め息をついて、涙を流していると、電話が鳴った。
一瞬何の音なのか解らなかった。
1ヵ月振りに電源を入れた携帯電話から鳴る着信音を聴いたからだった。
ディスプレイには
ユミ
と表示された。
きっと、言い過ぎたと謝りの電話だろう。
と、努めて明るい声で電話に出た。
「もしもし?」
もう怒って無いよ?
対照的にユミの声は沈んでいた。
「アヤ…?」
「何?」
「あんた…やっぱり病院行った方が良いよ…。」
「まだそんな事言ってんの!?」
期待を裏切られ、あたしはまた叫んだ。
「あんた…今の生活…今の姿…坂下さんに見せれる?」
そう言われて、何故か返す言葉が無かった。
ユミは更に続けた。
「坂下さん言ってたでしょ?サボテンも水をあげ過ぎたら腐って透けるって…
本当かどうか知らないけどさ、あんたもこんな事続けてたら透けて無くなるよ?」
「アキは…病院に行けなんて言わない。」
「言うよ。それがあんたの為だもん。」
「言わない!!アキはそんな事言ったりしない!!」
「あたしだって言いたくないよ!!でも今のあんたを助けてあげる力はあたしには無い!!」
ユミはとうとう泣き出した。
泣きたいのはこっちの方だ。
「あたしは大丈夫だから…もう構わないで?」
「もう…あんたに何を言っても…と言うか、あたしには掛けてやれる言葉が無い。」
「良いの…あたしはこれで良い…。ユミ?」
呼び掛けると、鼻をすする音がして、
「何?」
ユミは涙声で返事した。
「たまに…遊ぼうね?」
「うん。うん。たまになんて言わないでしょっちゅう遊ぶよ!」
「ううん。たまに…たまに遊ぼう。お互い負担掛かるから。」
「解った。少しずつ慣らして…回数増やして行こう?」
「うん。」
互いに涙声で通話を終えた。
これで良いのだろう…。
そう。これで良いのだ。
あたしも、ユミも、少し疲れているんだ。
ユミの言う通り、少しずつ慣らして行けば良い。
ユミはあたしの行動を否定するが、
あたしはそんなユミを否定する。
互いに互いを理解し切れないで居る。
すれ違い。
アキとすれ違い、ユミとすれ違った。
そう思うと、涙は止まるどころか、さらに量を増した。
泣いても泣いても…。
泣いても泣いても…。
泣いた所で、上手く行く訳では無い。
泣いた所で、全てが元通りになる訳では無い。
涙が流れて、太腿を濡らした。
それを見て、あたしの中の水分が枯渇してしまうのでは無いかと恐ろしくなった。
必死になって水を流し込んだ。
飲んでも飲んでも、涙が溢れてくる。
まるで口から取り入れた水が、そのまま涙腺に流れ込んでいる様な錯覚に捉われた。
「止まれ。止まれ…。」
そう言いながら、目を擦った。
だが、涙は容赦なく流れ出る。
「やだよ…。枯れちゃう…。止まってよ…。」
あたしは必死になったがどうする事も出来なかった。
ひたすら水を飲むだけ。
そう。
あたしは水を飲むだけ。
カーテンの隙間から、月を覗いた。
「きれい…。」
思わず声が出た。
ユミが何故あたしをおかしいと思うのかは解らなかったが、
ユミもきっと、この月を見て、あたしと同じ様に綺麗だと感じるだろう。
そしてアキも…遠く緑区で、同じ空の下、この月を見上げているかも知れない。
拝啓。
そちらの空は月が見えますか?
いつか…実家の星空を見せてあげたいな…。
ペットボトルの中で揺れるミネラルウォーター。
月に照らされてきらきらしていた。