第二十八話

「ニューフェイス」

今日も雨だ…。
梅雨明けが遅いなんて珍しい。

梅雨になるとあの夜を思い出す…。
アキとすれ違ったあの夜。

ユミは、タカシくん経由でアキに事情を聞いてくれた。
どうやらアキは、あたしがプロポーズを断ったと思っていたらしい。
あたしは、プロポーズの返事はしていない。
と言うより、出来なかったのだ。
あの時は、アキが人を殴った事で頭に血が上っていた。
大切な腕が壊れてしまわないか、気が気ではなかった。
他愛も無いすれ違い。
だが、たった一つのすれ違いが、修復不可能なひびを作った。
あたしとアキの間に、溝が出来た。
あたしが悪いのか、アキが悪いのか、それは解らない。
今までは一方的にアキを責めていたが、それは違うと思った。
しかし、あたしは謝ると言う事はしないだろう。
どちらが悪いわけでもない。だから、どちらかが謝るのは間違っている。
だから…溝が埋まる事は無いのだろう。


AiR-styleはこの一年で、かなり認知度が上がった。
化粧品のCMに『SOME STRIKE』が起用され、化粧品会社に問い合わせが殺到したらしい。
女性はもちろん、男性まで。
最近では、若者を中心に、また、ターゲットに、大手レコード会社やメディアまでが、
インディーズシーンに敏感だ。
人気急上昇の影にはそう言った背景も起因している。
初のフルアルバム である、『air walker』は、発売当初の売れ行きもさることながら、
CM起用後は急激に伸びた。
と言ってもあくまでもインディーズシーンの世界観での話。
アンダーグラウンドは、スポットをあてられてもアンダーグラウンドでしかない。

人気が出たからか、本人達の創作意欲が強いのか、
レコ発ツアーが終わると殆ど同時に2枚目のアルバムを放った。
先月の事だ。
あたしはただ驚いた。
何処まで成長するんだろう…。
ちなみに、この街に、AiR-styleが来る事はなかった。

どうやら新作のアルバムのレコ発も、この街は予定していない、らしい。

以上の事は殆どがユミに聞いた事だ。
今ではユミとも昔の様に逢えるようになった。
ただ、ミネラルウォーターの事は暗黙の禁句だった。
だから、互いの家に行く事ももちろん無くなった。

あたしはと言うと、相も変わらず。
御飯はきちんと食べれるようになった。
が、食欲が戻ったのではなく、胃に入れれるようになっただけだ。
美味しいと思った事は無い。栄養を摂取するだけ。

会社では何事も無いように装っているが、
空元気なのはばれているかもしれない。
ユミよりも、更に下の後輩も、その下の後輩も入り、あたしの本来の仕事である、
お茶汲みやコピーは、とっくに役職を追われ、あたしは企画担当として、
細やかながらも以前とは比べものにならない責任を負っている。

「会場が取れない?」
あたしはユミに聞き返した。
「はい。もう予約が入ってて…。」
ユミは会社用の口調で答えた。
「もう?何で1ヵ月も先の予約があんなライブハウスに入ってるの?」

「さぁ…しかも丁度ウチと日にちが重なるんですよ。ウチは、準備と本番で2日間なんですけど、ウチの準備の日と向こうの予約の日が重なるんです。」
溜め息をついた。
「何処が予約入れてるの?交渉してみる。」
「それがわかんないんですよ。あたしもそう思って聞いてみたんですけど…。
お客の情報は教えられない。って…。」
「もう!TREE STAGEの今のオーナーってコウくんでしょ?」
「はい…。あたしも粘ったんですけど…。」
「それなら別のハコ探すしかないか…。」
コウくんが話してくれないとなると、これ以上粘っても無理だろう。
「他のハコとなるとどうしてもちょっとグレードは下がりますよ?」
「しかたないよ。」
あたしはユミに笑い掛けた。ユミも、悪戯な笑みを返した。

給湯室から3人の新入社員が出て来た。
一人が代表で口を開いた。
「AiR-styleのボーカルがこの会社で働いてたって本当ですかぁ?」
「そうよ。」
あたしは言った。
ユミの表情は引きつっている。
「凄いですねっ!どんな人だったんですか?」
あたしに詰め寄る後輩に、ユミが割って入った。
「はいはい、あんた達仕事あんでしょ?サボらないサボらない。」
「だってお茶汲みやコピーばっかりで…。」
「あたし達も先輩達みたいな大きい仕事に関わりたいですよー。」
「あたしも松田さんもそうだったんだから。文句言わなーい。」
3人は渋々仕事に戻った。


「あたしがタカシの彼女だって知ったらどんな反応するかな?」
ユミは去って行く3人の後輩の背を見ながら、笑って言った。
そして
「大丈夫だった?坂下さんの話題は嫌でしょ?」
「まあね。でも今付き合ってるあんたよりはマシでしょ。
あたしのは…思い出だけだから。」
「そんな悲しい事言わないの。タカシの話にはなんないから大丈夫でしょ。
じゃ、どっか別のハコあたってみるわ。」
「宜しく。」

アキの話題を振られた時、彼女達に対して嫌な思いは無かった。
だが、この会社にアキがいた頃を…付き合い始めた頃を思い出した。

インディーズシーンに目を着けているのはレコード会社やメディアだけではない。
この会社でも、インディーズバンドを集めたイベントの主催を企画した。
イベントの名前に会社名を使い、大きくはないが、毎年恒例、
と言われる程有名になればその宣伝効果は多大な物となる。

まぁ、本当にそうなるのかは疑問だが。
取り敢えず試験的にやってみよう、と言う事らしい。
そのイベントに使うライブハウスは、やはり「TREE STAGE」だろう、と、若い社員の満場一致で決まった。

あたしはその会場の手配係。出場バンドの選出は山下がやっている。
ウチの会社は、ハッキリ言って大きい。
1ヵ月も休み続けたあたしの首を切らなかった事からも分かるだろう。
日本国民なら知らない人は居ない、大手の電気メーカーだ。
だからこそ、アキも辞めにくかったのだろう。
世界的に事業を拡大している会社で、
海外の映画の中に自然にウチの商品が使われる事は少なくない。
アメリカの体抵の家庭ではウチの製品が普及している。

あたしは山下が選出して来たバンドのデモテープをラジカセに放り込み、
ヘッドホンを耳に充てた。
音質が悪いのは大した問題じゃない。
本番こちらは音質よりも彼等に技術やセンスを求めているのだ。
音に関しては、絶対の自信がある。
なんせ、本番当日限定だが、トシくんを呼んだのだ。
トシくんは、AiR-styleの専属のP.A.で、忙しい所を無理にお願いした。

ヘッドホンから流れて来るのは、バラバラのセッション。
妙に甲高い声の男性が、気取った英語を拙い発音で歌っている。
あたしは溜め息をついて停止ボタンを押した。

次のテープを入れ、手元の資料から『ミケランジェロ』に抹線を入れた。
次のテープから流れて来た曲は、乱雑な『SOME STRIKE』のコピーだった。
気分が悪くなり、直ぐに切った。
3つ目のデモに手を伸ばすと、山下が外回りから戻ってきた。
「ちょっと山下くん?何で変なバンドばっかりなのよ?嫌がらせ?」
言いながら無意識にテープを差し込み、
資料から『Sunnyメイツ』を消去する。
「いや、一応色んな可能性をさ…。」
「小さいイベントだからってもう時間も無いんだからね。」
「ごめんごめん。」

山下が頭を掻いて苦笑いした瞬間、衝撃のサウンドが鼓膜に突き刺さった。
今ではもう懐かしい、『SUGAR SONG』だった。

衝撃を受けたのは、『SUGAR SONG』を聴いたからだけではない。
技術、センス、安定感。
どれを取っても申し分無い…いや、このバンドこそあたし達の求めていた存在だ。
「大体エスタみたいなバンド探そうったって無理だよ。」
「山下くん…。」
「えー?」
「これ誰!?資料載って無いんだけど!?」
「えっ?」
あたしはラジカセからジャックを引き抜いた。
途端にオフィスにその音が響いた。
ユミが立ち上がり、あたしに目を向けた。
山下は、いや、オフィスにいた全員が声を失った。
「山下くん!?何処のバンドなの?」
「ちょっ、ちょっと待って…」
山下は慌てて机の上の資料を掻き回す。
「あった!!円町の『shin』ってバンドだ!!」
バンド名を見て直ぐにパソコンに打ち込んだ。
「この子達のオリジナルの音源は無いの!?」
言いながらインターネットの検索サイトを巡り渡る。
「送って来たのはその曲だけだ…。」
山下は悔しそうに頭を掻いた。
「松田さん!!あたし行って来ます!!」
ユミはスーツの上着を羽織り、バッグを手に掛けた。
「宜しく!…あ、ちょっと待って!」
ユミが振り返る。
Hit!!
shinのホームページを見付けた。
直ぐ様、山下とユミのパソコンにアドレスを送る。
「山下くんはメンバーのプロフィール、ユミはスケジュールを見て?」
そしてあたしはデモ音源をダウンロードする。
しかしホームページに公表してあるデモ音源もコピー曲だった。
彼等はオリジナルはやらないのだろうか?
「松田さん、明日ライブみたいですよ?」
ユミは落ち着きを取り戻した口調で言った。
明日ライブがあるなら、今日慌てて動く事も無い。
「チケットは?」
「ま、売り切れる事は無いですね。」
「じゃぁ明日、様子見に行こうか。」
ユミと山下は頷いた。
緊張の糸が切れ、息を吐くと、課長が苦笑いで立っていた。
軽く会釈すると、
「山下ぁ、もっとしっかりしてくれよぉ?これじゃぁどっちがサポートかわからんぞ?」
山下も苦笑い。
あたしとユミは、元々がサポートとしてこの企画に参加していた。
企画総指揮の山下に抜擢されたのだ。
「今回の企画に関しては僕は完全にアウェーですから。」
山下は頭を掻いて笑った。
「あたし達は思いっ切りホームグラウンドですからね。」
ユミは笑った。
「松田も高野も本当によくやってくれてるな。」
課長は優しく笑った。
入社当時はぐちぐちとうるさい存在に思って居たが、
今となっては上司として、人として、彼を尊敬している。

終業時刻を大幅に過ぎ、やっとの思いで会社を出た。
帰り道は、ユミと明日の事について打ち合わせた。

我が家に戻ると、まずはコップになみなみと注いだミネラルウォーターでうがいした。

『shin』…。
バンドのメンバーの事を想像しながら、『SUGAR SONG』を流した。

技術はまだ素人だが、もしかするとセンスの面においては、
AiR-styleよりも上なのではないか…。

あたしは静かにコップを置いた。