第三十二話
「昇進」
一生の内で、自分の人生を大きく変えてしまう出逢いが何度かある。
つまり、人生を変えてしまう人間が、この世に何人か存在するのだ。
アキも、その一人だったのだろうか?
それとも、これから先に、あたしの運命を変えてしまうのだろうか?
しかし彼女は、確実に今日、あたしの人生を変える働きをする。
しかしあたしはまだそれに気付いていなかった。
shinにどうしても出場して欲しいあたし達は、
何度かshinにコンタクトを取っていた。
しかし、やはりshinはコピーを貫く姿勢を変えず、
あたし達は途方に暮れていた。
「宝の持ち腐れ」とユミは言った。
「技術は素晴らしいが、視野が狭い」とあたしは思った。
その電話があったのは、調度あたしがお風呂から上がった時だった。
あたしは空になったミネラルウォーターのボトルをゴミ袋に放り込み、
携帯電話を手に取った。
知らない番号。
それも、携帯電話からでは無く、自宅の電話からの着信だ。
誰だろう?
軽く首を傾げながら通話ボタンを押す。
「…もしもし?」
「やっ。お久し振り。」
屈託の無い明るい声だった。
しかし、誰なのかは判然としない。
判るのは女性と言う事だけ。
「あの…失礼ですが…。」
はっきり「誰ですか?」とは聞けなかった。
相手の女性は言葉の先を汲み取ってくれ、
「あー、やっぱ判んない?アキの母です。」
頭で理解する前に、姿勢を正した。
「あっアキの?え?瑞穂さん!?」
「その通り。」
瑞穂さんは明るく言った。
瑞穂さんは、『おばさん』と呼ばれる事を嫌い、
自分を名前で呼ぶようにと、初めて逢った日に言われた。
アキと付き合っている間は、何度か瑞穂さんの家、
つまりアキの実家にお邪魔したが、アキと別れてからは、
お邪魔する所か、言葉の一つすら交わしていなかった。
アキとの繋がりが切れたので、それは至極当然の事だった。
そんな瑞穂さんが、何故、今頃あたしに連絡を取ってくるのだろう…。
「あのね、どうしても急な用事が出来てしまってね、
前に課長さんに無理言って松田さんの番号伺おうと思ったんだけど、
少し大変そうだと言われて電話するのは控えてたの。
そろそろ、って思ってまた課長さんに伺ったら大丈夫だろうって事で、
こうして電話させてもらったの。急にごめんなさいね。」
あたしは短く
「いえ…。」
とだけ言った。
大変そうだ、と言うのは…そうか…瑞穂さんも知っているのか…。
「そんなに戸惑わないで良いから。」
瑞穂さんは笑った。
あたしの中の暗い思いが霧散する。
「あの…急な用事って…あたしにですか?」
「うん。っても1年前の急な用事なんだけどね。
それでね、こっちから電話しといて悪いんだけど、
時間のある時にでもウチに来てもらえないかな?」
「そちらに?」
「うん。渡したい物もあるし、お忙しいとは思うけど…。」
「いえそんな。」
言いながらあたしは仕事のスケジュールを頭に浮かべる。
今の所はまだそんなに忙しく無いが、早めに行った方が良いだろう。
来月には休む暇など無くなる程忙しくなる。
「今週末はどう?」
「今週末…はい。大丈夫です。」
「土曜で良い?」
「はい。」
土曜…と言うと、3日後か。
「じゃあ、待ってるからいつでも来てね?」
「はい。お昼頃に伺うと思います。」
「それじゃ、楽しみにしてるから。」
電話が終わると、気が抜けて息が洩れた。
用事とは何なのだろう?
まさかアキが…!?
浮かび上がった推測を直ぐに打ち消した。
アキが他人を使ってあたしとコンタクトを取ろうとする筈が無い。
あたしと何かしらコンタクトを取るのなら、アキ自身が直接だろう。
そうで無ければ、タカシくんやトオルくんからユミやメグを通す筈。
母親の瑞穂さんを経由する事は考えられない。
あたしはベッドに仰向けに横たわり、大きく溜め息をついた。
では、何だと言うのか…?
考えた所で答えなど出ない事を、しかし取り留め無く考えた。
眠気は全く無いつもりだったが、考えを巡らせている内にいつの間にか寝てしまった。
次の日、出社すると、山下が、
「おはよう。会場確保したから。」
と言う。
「やっぱりTREE
STAGEは無理か。何処のハコ?」
聞くと、
「日輪町太陽公園。」
と言った。
「太陽公園!?」
あたしは思わず聞き返した。
「驚いた?」
山下は笑う。
太陽公園とは、日輪町の駅からバスで20分の小高い丘にある、
少し離れた公園で、その大きさは公園と呼ぶには程遠い位の広さである。
別名サンパークと呼ばれるその公園は、野球ドーム位ある大きな芝生があり、
恐らくそこが会場となるのだろう…しかし広過ぎるのではないか?
同じ人数を収容したとして、狭いライブハウスと広大な草原とでは、
まるで捉らえ方が変わって来る。
ライブハウスを満員にする人数でも、太陽公園だと、
人と人の間隔が空き、ガラガラだと思われても仕方ない。
「そんな広い所で本当にお客が入るの?」
「それが問い合わせが殺到しててさ、上が検討し直せって事でね。」
問い合わせが殺到?
気になったが、とにかく業務上での話を持ち掛けた。
「準備は?もう1ヵ月しか無いんだよ?」
元々、ライブハウスを使って試験的に行うイベントだったので、
1ヵ月の準備で充分だったのだが、太陽公園の規模を考えると、
とても1ヵ月で遂行出来る物では無い。
「とにかくプロジェクトスタッフを増員して、意地でも間に合わせろってさ。
最悪延ばすにしても1週間が限度だそうだ。」
「チケットは?もう刷ったんでしょ?」
「全部刷り直し。もうやってる。」
「1ヵ月で売るんでしょ?パニックになるよ?」
「何処のイベントも先行販売合わせて、実際売切れまでは2週間掛からないよ。
半年前に売ろうが1ヵ月前に売ろうが結局はパニックだよ。」
「チケットは何枚?と言うか、太陽公園に収容する人数は何人よ?」
「3000人。」
目の前が真っ暗になった。
3000…予定の10倍じゃないか。
だから1ヵ月では足りないと言ったんだ。
このイベントの計画を聞いた時に反論した。
小さなイベントだからと、上の人間は少し甘く見過ぎていた。
せめて3ヵ月は余裕が欲しかったが、上は決定を変えなかった。
それよりも気になるのは、『問い合わせが殺到』と言う事実と、山下や上のこの自信だ。
「問い合わせ殺到ってどう言う事?」
「FRESH SUMMER BERRYが口コミで広がってるみたいなんだ。
全国からチケットや出演者について問い合わせが来てる。」
「全国から?なんでこんな小さなイベントに全国から問い合わせが来るの?」
「だから、口コミで…。」
「だからなんで広まるの!?おかしいとは思わない?」
「いや…そう言われても…。」
どうやら山下も上も、問い合わせの多さに舞い上がっていたようだ。
あたしが溜め息をつくと、「アヤっ!」
ユミの叫ぶ声がした。
「バカ…。」
あたしは頭を抱えた。
また敬語を忘れている。
周りが何事かとユミを見る。
「高野さん落ち着いてっ。」
あたしが言うと、ユミは深く息を吸い込み、
「SUMMER BERRYに…AiR-styleが出るっていう噂が…。」
はぁ?
「はぁ?」
「もう皆エスタが出るもんだと思ってます。」
「噂って?何処で?」
「ネットで…。」
溜め息が出る。
ネットの力は計り知れない。
「タカシくんは何て言ってんの?」
「タカシは知らないって。やっぱりただの噂ですよ。」
すると、
「タカシって誰ですか?」
新入社員の女の子が首を傾げていた。
しまった…。
「もしかしてAiR-styleのタカシですか!?高野さんタカシと知り合いなんですか?」
周りがざわめく。ユミは俯いた。
「今関係無いでしょ?」
あたしは早口で言った。
「隠さないでも良いじゃないですかー。」
「ちょっと黙ってて!!」
思わず叫ぶと、周りはしんと静まった。
「た…タカシなんて名前何処にでもあるでしょ?」
苦しい言い訳だった。
しかし、構ってはいられなかった。
「山下くん…。」
山下は顎に指を置いた。
「うん。問い合わせが急に増えたのはその所為か…。」
「どう言う事です?」
ユミはきょとんとした。
あたしはユミに説明する。
「俺は上に報告して来る!…もしかすると…出てもらう事になるかも知れない。」
あたしは頷いた。
AiR-styleにFRESH SUMMER BERRYの出演を依頼する可能性は高い…が、
AiR-styleの所属するレーベル、ハイスピンレコードは、
BERRYレコードのライバルとされているFine Musicの作ったインディーズのレーベルだ。
Fine Musicとは、BERRYと同様、大手家電メーカーである『Fine』のレコード会社で、
数々の有名アーティストが所属している。
そしてインディーズシーンに目を付けると、逸速く、ハイスピンレコードを立ち上げた。
新しい取り組みに次々と挑戦する姿勢が、Fineにはあった。
BERRYはまだ考え方が古く、慎重に事を進めるので、
インディーズレーベルは立ち上げず、結局タイミングを失い、
インディーズレーベルの立ち上げは見送られたらしい。
確かにライバル心もあるが、世間にもBERRYとFineはライバルだと認識されている為、
競争し易く、技術開発の向上に繋がるので、良い関係であると言う見方もしている。
良きライバルと言う訳だ。
其のライバルのイベントに、人気急上昇のAiR-styleを出演させるだろうか…?
心配しながらも、あたしは上の決定を待つしかなかった。
元々あたしはBERRYレコードとは何の関係も無い人間だ。
あたしたちの所属する部署は、『家電広報課』と言う、
家電製品の広報を担当する部署だ。
BERRYとBERRYレコードは、深い関係にあるようで、まるで別の物だ。
なのに何故、あたし達がイベントの重要な役を担っているかと言うと、
全ては課長と山下のお陰なのだ。
山下はああ見えて、本当に優秀な社員で、近々別の部署の課長に昇進するらしい。
其の異動先の部署が、レコードの方なのだ。
それで、小さなイベントだが、任せてみてはと、課長が上に意見した。
しかしここまで大きくなると、レコードの方の人間を多数動員する事になるだろう。
そうなった時、『家電広報課』と言う関係ない部署のあたし達の意見を、
きちんと聞いてくれるだろうか?
元々このイベントを山下に任せることで、
レコードの中では批判の声が上がったらしい。
そう言う相談を、ユミとしていると、山下が戻って来た。
「お帰り。どうだった?」
「松田さんと、高野さん、課長が呼んでる。」
「え?」
「会議室に居るから。」
訳も解らず、会議室のドアをノックした。
「松田です。」
「高野です。」
「山下さんに呼ばれてきたんですが…。」
「入って。」
ゆっくりドアを開ける。
会議室には課長一人が座っていた。
「課長。なんですか?」
課長の前に立って言うと、
「わざわざ来てもらって悪いね。えっと、松田くん、高野くん…。」
「はい?」
「昇進。」
「は?」
「えっと、松田くんが部長。高野くんが係長。」
「はい?」
ユミは目を丸くしている。
多分、あたしの目も丸くなってる。
課長は笑ってる。