第三十三話

「啓示」


「どう言う事ですか?」
あたしは驚きを隠さず聞いた。
「どう言う事も何も、言葉そのままだよ。」
課長は笑ったまま言った。
「あたし達別に昇進するような事してません。
昇進試験も受けていませんし、まだ入社して5年も経ってないし…。」
「試験だけが昇進の道じゃない。」
「じゃあ、何故です?」
ユミは課長の机に両手を着いた。
「そんなに慌てるな。良いか?プロジェクトが大きくなったのはもう聞いたか?」
あたし達は頷いた。
それを受けて課長も頷く。
「BERRYレコードの方から応援が来る事になった。大勢だ。
だけど、今まで通りお前達が仕切るんだ。」
「本職が来るのにあたし等が仕切ってて良いんですか?」
ユミは腕を組んだ。
「レコードの人間が来て、お前達が今まで作り上げて居た物を崩されるのは見たくない。
あいつ等は好き勝手にやろうとするだろう。
専門は自分達で、お前達は素人だ。あいつ等にもプライドがある。」
「あたし達にもプライドがあります。」
ユミは毅然と言った。
課長は笑った。
「よし。そこでな、新しい部署を作った。」
「は?」
課長は一度資料に目を落とした。
「ええと、『BERRY RECORD特別人事課』だ。」
「人事課?…特別?」
「あたし達レコードに異動ですか?」
「ああ。『特別人事課』は、つまりはスカウトだ。
若い才能を見付け、それを開花させる。」
「『特別』ってのは?」
ユミが尋ねる。
「BERRYの、インディーズのレコード会社を作る事になった。
俺はそっちの方は疎いんだが、つまりインディーズってのは…」
「知ってます。」
ユミは言葉を重ねた。
「あ、ああ。そうか。知らないのは俺達おじさん位なもんか。
まぁ、上がやっと重い腰を上げた訳だ。
それで、『特別人事課』はインディーズをスカウトする訳だ。
えーと、インディーズのレーベル?あぁ、レコード会社か。
それを作る為の人選をやってもらいたい。」
課長は手元の資料を見ながら手探りで言葉を発する。
「新しい部署が出来るのは解りました。
それで、あたし達が昇進って言うのは?」
「今回のイベントは、インディーズの発掘にはもってこいだろ?
レコードの連中は売れてる奴等…何て言った?
あぁ、メジャー?の音楽で頭が固まってる…らしいんだ。
そんな奴等にごちゃごちゃ口出しされたくないだろう?」
「どう言う事か話が見えないんですけど…。」
ユミは首を傾げた。
「つまり、あたし達が昇進して、立場が上になって主導権を握る訳ですか?」
「ま、そう言う事だ。山下が特別人事課課長、松田が部長、高野が総括係長だ。」
「総括係長?」
「お前の下に3人係長が就く。」
ユミは嘆息した。
「FRESH SUMMER BERRYが終わったらどうするんです?」
「本格的にインディーズレーベルを立ち上げる業務に就いてくれ。
社長なんかもお前達が選定するんだ。」
「社長も!?」
「だから、『特別人事課』なんだよ。」
係長はニヤリと笑った。
「社長なんて、上の人間がなるもんじゃないんですか?」
「上もな、インディーズレーベルなんてもんの評価は曖昧なんだ。
だから自分達が社長をするより、何処かから馬の骨でも見付けて来て、
まずはそいつにやらせようって腹だろう。」
「じゃあ、社内からじゃなく、何処か別の所から社長を探せと?」
「ああ。上の考える事はよく解らん。理想としては、
ミュージシャンが社長になって欲しいらしい。話題性もあるしな。」
あたし達は首を傾げた。インディーズレーベルが曖昧?
今更何を言うんだろう?
インディーズブームが長く無いと見越しての事なのか…?
「解りました。辞令が下りるのはいつですか?」
あたしが問うと、課長はまたニヤリとして、紙を2枚ひらつかせた。
あたしは苦笑いでそれを受け取った。
「来週月曜日付けで昇進だ。ロッカーとか整理しとくように。」
「はい。」
二人同時に返事した。
「寂しくなるな…。」
課長がしみじみ言う。
「何かと不慣れな事ばかりだと思いますので、
また、相談しに来ても良いですか?」
あたしが笑うと、
「ああ。新しく出来る部署だからな、初めは暗中模索だろう。
何かと大変だが、頑張ってくれ。」
課長も笑った。
「失礼します。」
あたし達はお辞儀して踵を返した。
「あぁ、ちょっと待ってくれ。」
課長はトランプのようなケースをあたし達に渡した。
「新しい名刺だ。…売れてない歌手が売れるなんて、
俺には理解出来ないよ。」
課長は苦笑いで、少し哀しそうに言った。
あたしは笑顔で応え、会議室を後にした。


結局AiR-styleをゲストで呼ぶ方向で、上の決定が下った。
アキに逢う事になるだろう。どんな顔で逢えば良いのか…。


仕事が終わると、
「ロッカーの整理どうします?」
ユミが言う。
「あんたは?」
「あたしは土日でするつもりですけど…。」
「あ、あたし土曜日は用事あるから日曜日にやろうと思って…。」
言うと、ユミは小声で
「あんたが休日出掛けるなんて珍しいね。shinのライブの時も思ったけど、
結構元気になって来た?」
「違うわよ。アキのお母さんが逢いたいって…。」
あたしも小声になる。
「マジ!?どう言う事!?」
「さぁね。」
「まさか坂下さんが…?」
「それは無いよ。何でわざわざお母さんを通じて連絡するのさ?」
「だよねぇ…ま、なんかあったら教えてよ。」
するとユミは声のトーンを戻して、
「じゃあ、あたしも日曜日にやっちゃいますね。」
と笑った。


ロッカーを少し整理し、家に帰ったのは18時を回っていた。
お風呂に入り、御飯を食べるとする事が無くなった。

あたしはぼんやりと夕陽を眺めていた。
ビルの間からは眩い夕陽が覗いていた。
何度も溜め息をついて、ミネラルウォーターを口にした。
ボトルを口に運ぶ動作で、ブラ紐が肩からずり落ちた。

アキとはあれ以来連絡を取っていない…。
その現実が、これから来る現実に重なる。
AiR-styleに出演交渉をする…他の人間に頼める仕事では無い。
これも運命なのか…。
あの夕陽の向こうに居る神は、
あたしとアキを引き合わせたがっているのだろうか…。
1年前…アキの頬を張った掌を見つめる…。

もう一度溜め息をついて、カーテンを乱暴に閉めた。
空になったペットボトルをゴミ袋に放り投げ、台所で新しいボトルを開ける。

少し落ち着く。

ミネラルはストレスに効くのではないだろうか…。

コンポからは小さな音量で『エース』が流れている。

アルバムの中で、この曲だけは歌詞が載っていなかった。
何故だろうとぼんやり考えながら、
未だに未練がましくAiR-styleのCDを全て買い揃えている自分を
滑稽に思った。
英語なのは解るが、アキの発音が良過ぎるのか、殆ど聴き取れない。
今度、山下にでも聞こう。

肩口から下がるブラ紐に目をやる。
直すのも面倒だ。

すると携帯電話が鳴った。
ディスプレイに表示された名前と番号は、ユミのそれだった。

「…もしもし?」
「来週!AiR-styleのライブがあるよっ!」
あたしは一瞬、反応出来ないで居た。
携帯を握る手に力が入る。
「ライブ!?今ツアー中でしょ?」
手に汗が滲むのが分かる。
「急に決まったんだって!…ってか、
タカシとトオルさんが坂下さん説得したらしいよ。」
「…アキは…納得したの?」
アキも合意の上なのか、
それともタカシくんとトオルくんが無理矢理説得したのか…。
「そこまでは聞いてない。」
「納得して無いなら、そんな状態で来て欲しくない…。」
あたしは小さな声で言った。
「あんた達だけの問題じゃないの。あたしだってタカシに逢いたいし、
メグさんだってトオルさんに逢いたがってるんだから。」
と、ユミは少し怒った。何も言えなかった。
AiR-styleが街を出て、すぐに産まれた喜美も、逢いたがっているだろう。

その後は、ユミが何を言っていたのか、あまり覚えていない。

アキが来る。

その想いだけがあたしの頭も、心も支配していた。
運命の神は、あたしに、アキに逢えと、そう言っているのだろうか?
あたしは失笑した。
これは神の啓示なのだろうか?

通話を終えた携帯電話を右手で握ったまま、
ぼんやりと天井を見上げながらブラ紐を直した。

そして、心の中でアキ、ごめんね、と叫んだ。

それから二日は、やはりぼんやりと過ごした。
仕事は、一応はきちんとこなしていたが、
何処か上の空だったのは自覚している。
アキを目の前にして、自分はどうすれば、何を言えば良いのだろう…。
その時を思うと、手が震えた。

怖い…。

ただ漠然と恐怖を感じた。
何が怖いのか、何故怖いのか、自分でも解らなかった。
ただ、怖かった。
畏れれば畏れるほど、深みにはまっていった。

上の人間から、命令が下った。
何処から情報を仕入れたのか、AiR-styleのライブに赴き、
AiR-styleに出演交渉をし、必ず首を縦に振らせろ。
との事だ。
顔もよく知らない上の人間からの命令は、
それこそ天から降りてくる啓示の様で、
ふわふわと、まるで現実味が無かった。

しかし、AiR-styleに、アキに直接出演交渉をする。
それだけは現実味を帯びて、重く、あたしの中心に居座った。

それを拭える術など無く、辛うじて覚えていた、土曜日の約束。

あたしは電車に揺られた。