第三十四話

「時雨」

土曜日。

見事な快晴だった。
雲は鮮やかな水色の中に点々と浮かぶだけで、
それが余計に晴れた空を爽やかに演出する。

いつ以来だろう…?
電車に揺られながら、何度か訪ねたアキの家を思い出す。

瑞穂さんは朗らかで、気さく。
おおざっぱに見えるが、それは決断力が強く、
細かな事に悩まない性格だからだろう。

アキのお父さん…聡さんは、あまり口を開かないが、
笑うと凄く可愛い目をしていた。
瑞穂さんに頭が上がらない様に見えるのは、彼が優しく、
瑞穂さんの意見をしっかりと聞く事が出来たからだろう。


そんな夫婦に亀裂が入った。
あんなに支え合って居た夫婦が離れ離れになってしまった。
それは、『生』と『死』と言う、修正する事の出来ぬ亀裂。
互いが互いを求めても、二度と叶わない。
手を取り合う事も、笑い合う事も…ただ、同じ空気を感じる事でさえ…。

そう考えると、自分達はなんて贅沢なんだろうと思った。
互いが望めば、そして行動すれば、叶わない事等無い。
一体何があたし達を引き離してしまうのだろう…。
何が、あたし達の間に立ちはだかっているのだろう…。

自分自身…。

ふと、恐らく答えだろうと言う物に気付いた。
いや、きっとそうだ。
あたしは失笑した。

あたし達を引き離して居るのは、外ならぬあたし達自身なのだ。


電車の中、あたしは誰にも気付かれない溜め息をついた。



坂下家に着いたのは、後10分で1時になろうかと言う頃だった。
呼鈴を押すと、直ぐに瑞穂さんが顔を出した。
「いらっしゃい。待ってたよ。」
見せる笑顔は、以前と変わらずの朗らかなものだったが、
何処か疲れが刻まれて居る気がした。
「お邪魔します。」
あたしも笑顔で応えると、嬉しそうに家の中に招いてくれた。
玄関に靴を脱ぐとスリッパを差し出された。
「そんな気を遣わないで下さい。」
あたしが笑うと、
「今日はお客さんなんだから良いのよ。」
瑞穂さんも笑った。
居間に通され、畳に腰を下ろすと、
「珈琲にする?紅茶?」
「いえ…。」
あたしは気まずくなったが、
「あたしが飲みたいの。遠慮しないで?」
瑞穂さんはなんでも無いと言う風に言った。
あたしは俯いて、
「そう言う訳じゃなくて…。」
言うと、瑞穂さんははっとして、
「ごめんなさいね…。」
と伏し目がちに言った。
「いえ、すいません…ありがとうございます。」
「水しか…受け付けないの?」
「はい…。ミネラルウォーターだけなんです…。」
「そう…。」
瑞穂さんはそれ以上この話題には触れなかった。

一瞬、重い空気が部屋を包んだが、瑞穂さんは直ぐにそれを払拭した。

「そう!この前メグちゃんに逢ったの。喜美ちゃんも一緒だったんだけど、
大きくなったねー。」
「喜美はそろそろ1歳ですかね?」
「そうなの?可愛いねー。」
と、にっこり笑った。
あたしも喜美の顔を思い出すと自然と顔が綻んだ。
「今はどんなお仕事をしてるの?」
瑞穂さんが尋ねるので、あたしは先日受け取ったばかりの名刺を手渡し、
「今は、来月に予定している野外ライブイベントの仕事をしています。」
と付け加えた。
名刺を見ながら、
「まぁ、部長さん?」
と瑞穂さんは驚いた。
「つい先日なったばかりですけどね。」
あたしは苦笑いで答えた。
「この『特別人事課』ってどんなお仕事なの?」
聞かれ、あたしは大きく息を吸い込んだ。
真っ直ぐ瑞穂さんを見据えて言った。
「以前のアキの様な、知られて居ない才能を見付ける仕事です。」
瑞穂さんは驚いた表情の後、ゆっくりと笑顔になった。
「素敵なお仕事ね。」
「はい。」
「ごめんなさいね。人の仕事を詮索するような事しちゃった。」
言うと、瑞穂さんは本題に入った。
「今日来てもらったのはね…。」
言いながら、瑞穂さんは白い封筒をテーブルの上に置いた。
「あの人の遺書…。」
「遺書…?」
初めて『遺書』と言う物の実物を見たあたしは、何か物々しく思い、
手に取れずに居た。
「読んでもらえる?」
「良いんですか…?」
瑞穂さんは頷き、
「あなた宛てなの。」
「あたし宛て…!?」
瑞穂さんはもう一度頷いた。

少し震える手で封筒を手に取り、既に開かれている口から、中身を取り出した。
「ごめんなさい。あなた宛なのに勝手に開けちゃって。
だってあの人宛名書いて無いんだもん。」
「いえいえ。そんな。」
あたしは、自分宛に書かれた遺書を読み出した。


遺書

この遺書が、私以外の誰かが読んでいると言う事は、
私は既に死んでいるのであろう。
そう思うと、やはり悲しい。
だが、不思議と涙は出ない。
現実感が無い訳では無い。
寧ろ、死も一つの現実と、受け止められる様になった。
癌を宣告された時から、いつかはと、覚悟していたからかも知れない。
死ぬ時に、心残り無く死にたかった。
が、私は其の様な立派な人間では無いと言う事か。
心残りが一つ。
妻、瑞穂。
長男、明。
そして、何れ娘になる筈だった、
いや、なるであろう、松田綾。
この三人を残し、逝く事が、坂下聡として、悔いて悔やまれぬただ一つの事。
どうか、三人がいつまでも倖せで在らん事を願い、
また、この願いも共に、天国であるか、地獄であるか、赴くとする。
若き日に見た夢はどうであるか。
自問、してみるに、それについては悔いていない事に気付く。
自答、それが定かであるかは別とするが、愚息、明、
其れこそが、私の夢を代わりに叶えてくれるだろうと、そう確信する。

後先となったが、この遺書は、松田綾に宛てる。
瑞穂、明、こらえてくれ。

綾様。
右に、心残りは一つと記しましたが、訂正致します。
心残りはもう一つ。
あなたと明について。
愚息は、馬鹿ですが、あれも馬鹿なりに物事を考えて居ます。
あなたと明の間に何事があったかは、もう私には知る術はありませんが、
私も親です。
愚息だが、それ故に愛しています。
愚息を、何卒、宜しくお願い致します。
瑞穂も、元々三人と少ない家族が一人減り、
唯一残ります愚息も、何時帰って来るかも解らぬ始末。
どうか、坂下家の一員になっては頂けないでしょうか。


一度筆を置き、頭を冷やし考えるに、
私は大変立ち入った事を申した様で。
失礼致しました。
人と人、まして男と女の関係に、第三者に口を挟む余地はありませんでした。
しかし、私の胸中を知って居て頂きたいが故、前文は残しておくものと致します。
あたなの心の隅にでも、留めて頂ければ幸いとします。

この遺書を遺すに至るその理由に、あなたへの、身勝手なお願いがあります。
大変不躾かとは自覚致しておりますが、坂下聡、人生最期の願いと、
これに免じて、どうか聞き入れて頂けないでしょうか。

私には夢がございました。
恥ずかしくも、私が愚息と全く同じ夢でございました。
私の夢については、多くを語る事を控えさせて頂きたいのですが、
つきましては、以前より私の命と等しく思っておりましたこれを、
あなたに受け取って頂きたく思います。
名を、時雨と申します。
あなたにとってなんら必要の無い物とは存じておりますが、
どうか貰い受けて頂けないでしょうか。

一度、あなたの手に渡れば、時雨はあなたの物として、
この遺書に関係無く、その所在はあなたの判断に一任致します。
時雨をどうしようと、あなたが決める事を私は怨んだり致しません。

その他、ささやかであるが、私の遺した物については、
その全てを瑞穂が受け取るものとする。

長々と、乱筆にて失礼。

坂下聡 筆
(P.S 何か難しい言葉ばっかりでごめん。)


途中からぽろぽろと涙を落としていたあたしは、最後の追伸で小さく吹き出した。
「最後のそれ、笑っちゃうでしょ?」
文面を思い出してか、瑞穂さんは少し涙ぐんで居た。
「この…しぐれ…って?」
あたしは遺書のその部分を指差して聞いた。
すると瑞穂さんは黙って立ち上がり、部屋を出て行き、
直ぐに何かを持って戻って来た。
「その遺書はね、この中に入っていたの。」
ギターのハードケース…。
「これ…ギターですか?」
瑞穂さんは首を振り、
「ベースよ。」
「アキと全く同じ夢って…やっぱり…。」
瑞穂さんは、今度は頷いた。
「あの人の夢はプロのミュージシャンになる事だった…
でも全然芽が出なくてね…そうこうしてる内にあたしのお腹の中にアキが居る事が判った。
それであの人は夢を諦めた。
元々あの人の親にも、あたしの親にもまともな仕事に就けって言われててね。
結局はあたしの親に就職を世話してもらったの。
口には出さなかったけど、あの人にはかなりの屈辱だった…。」
あたしはただ黙って聞いていた。
「だからでしょうね。アキが音楽を始めるのが怖かったみたい。
小さな頃からアキを必要以上に音楽に触れさせる事はしなかった…
でも遺伝ね…ある日アキは友達に借りたCDを自分の部屋で喜々として聴いていたわ。
古い洋楽のCDだった。それを見付けたあの人は理由も言わず怒鳴った。
後でね、あたしにだけ教えてくれたわ。『俺はあのCDを聴いて音楽に目覚めたんだ。だから思わず怒鳴ってしまった。』って。
それだけであたし泣いちゃった。」
瑞穂さんは涙を浮かべながらも笑った。
「アキは猛反発したわ。調度何度目かの反抗期と重なったのかも知れない。
アキは隠れて音楽を聴いていた。いつの間にかベースを借りて友達の家で練習するようになった。
これにはあたしもあの人も、運命じみたものを感じてしまった。アキは殆ど家に居なくなった。
別にグレた訳でもないのに。御飯も外で食べて、友達の家に入り浸って居た。
ベースを弾きたくて弾きたくて、ただそれだけで…。あたし達もこれじゃあさすがにマズイと思ってね。
友達の家にもご迷惑が掛かるしって事で、ベースを弾く事は認めたの。
あたしはもう自由にしてあげれば?って言ったんだけどね。
それでもあの人はバンドを組む事は認めなかった。昔の事をトラウマの様に抱いていた。
でも、結局同じ様に、アキの粘りに負けて徐々に認めて行ったわ。
バンドを組む事、ライブをやる事、曲を作る事…普通の子なら望めば当たり前に手に入る自由を、
アキは一つ一つ、根気良く手に入れて行った。そして…プロになる事さえ…。」
瑞穂さんは少し目を閉じた。
そして次に開かれた目からは、大粒の涙が零れ落ちた。
「実はね。最終的にアキがプロになる事を認めたのはあの人なの。
今まで頑固になって否定してた本人があたしより先に折れたの。
あたし呆れちゃってね。」
泣き笑いの表情で涙を拭う仕種に、あたしも再び涙を誘われた。
「このベース…絶対あたしが貰うべきじゃないと思います。
あたしが持って居ても、どうする事も出来ないし、正直重いです…。」
瑞穂さんはふっと笑って、
「そのベースはね、あの人が必死で働いて、贅沢もおしゃれも遊ぶ事も
全部我慢して、やっと貯めたお金でオーダーメイドしたの。
お陰でデートもいつも質素で味気無かったわ…あたしも若かったから、
不満をぶつけたりもした。でもね…オーダーして、ベースが出来上がるまでの半年間、
そして出来上がったベースを手にした時…あの人の嬉しそうな顔…
それを見たとき、あたしは全部諦めた。ああ、この人は音楽が本当に好きなんだって。
あたしは音楽に負けたなぁって。」
「そんな事…。」
瑞穂さんは首を振った。
「あの人もそう言ったけどね。解ってる。あの人は音楽しか頭に無かった。
嬉しそうに『時雨』なんて大層な名前まで付けて、馬鹿みたいって思ったわ。
ただ、それを失ってからは、あたしだけを見てくれたから良いんだけどね。」
と、瑞穂さんは舌を出した。
「それを聞くと、尚更受け取れません。これは、時雨はアキが譲り受けるべきだと思います。」
あたしはハッキリと言った。
しかし、瑞穂さんは笑顔で首を振る。
「あなたがどう言おうと、これをあたしからアキに譲る事はしません。
あの人は、あなたに時雨を譲ると決めた。他の人には決して譲りません。」
「何故です!?瑞穂さんもアキが持つ方が良いと思うでしょう?」
「あの人がどう考えていたかは、今はもう誰も知る由も無いわ。
ここから先は、あたし個人の検分です。アヤちゃん。あのね。
あの人は時雨をあなたに受け取って欲しいと言った。
だから、あたしもあなたに時雨を手渡す。でもね、受け取れば、時雨はあなたの物。
あの人も言うように、時雨をどうしようと、あなたの勝手。
あたしも、あの人も、何も文句を言わないし、口出しもしない。あなたの好きにして?
部屋に飾っていても良い。押入れにしまっていても良い。棄てても、良い。」
「そんな…。」
「そして、誰か他の人に譲っても良い。」
瑞穂さんはにっこり笑った。
あたしは、ハッとした。
「アキに…?」
「さっきも言ったけど、これはあたしの検分。
あの人は、あの人なりに考えて、あなたとアキの橋渡しとして、時雨を遺したんじゃないかな?
遺したい人に遺すんじゃなく、間接的に届くようにした。あなたの言う通り、
本当は、アキに遺したいんでしょうね。でも、あなたが、きっと…って、
そう思ったから、だからあなたに宛てたのよ。」

口を押さえて、涙を流した。
何も言えなかった。
俯いて、ただ、しゃくり上げるだけだった。
そんなあたしの背中を、瑞穂さんは優しく擦ってくれた。
「不器用に、あの人なりに、キューピッドを気取ったのよ。」
あたしは泣きながら何度も頷いた。
最初は、アキのお父さんの気遣いと、それをさせてしまった事に涙を流した。
あたし達が、こんな事にならなければ、アキに直接時雨を遺せたのに…。
そして、これからどうすれば良いのか…それを考えると、更に涙が出て来た。
神は、どうあってもあたしをアキに逢わせたいらしい。
アキに逢う事を考えると、不安が募る。
不安をそのまま口にした。

「アキに逢って…逢っても…あたし…どうしたら…?」
瑞穂さんは一定のリズムで背中を擦ってくれる。
「特別な事なんてしなくて良い。気負いも必要ない。
面と向かえば、自然と身体が、心が動くから…。」
そのまま、あたしは30分程泣いた。

落ち着いて、少しお茶をして、その重量よりも遥かに重い『時雨』を手に、
あたしは昼下がりの土曜日の日を浴びながら、再び電車に揺られた。