第三十五話
「坂下」
目覚めて直ぐに行動出来るなんて、とても珍しい事だった。
服を着替えて、テレビをつけた。
朝のニュースが画面に映し出される。
それを横目に珈琲を煎れ、ベッドに座った。
もう迷わない。
まだ、「やり直そう」なんて言える勇気は無いが、
まずはもう一度アヤに逢おう。
集合時間まで、まだ1時間もある。
ゆっくりと珈琲を飲み、煙草を2本吸った。
朝から風呂に入る習慣は無いので、時間を持て余していた。
僕は1階まで降りて、ロビーを抜け、ホテルの中の喫茶店に入った。
そこにはトシくんとトオルが座っていた。
僕がそのテーブルに近付くと、
「珍しいな。」
とトオルが言った。
「何か目が覚めちゃって。」
僕が言うと、トシくんは、
「歳とったんじゃないの?」
と笑った。
「まだ悩んでんの?」
トオルが心配そうに言う。
僕は首を振った。
「決めた。やろう。日輪町で。」
「そっか。」
「良かった。」
二人は声を揃えた。
「ライブはいつやるの?」
「来週。」
「はっ!?」
「そんなに驚くなよ。ツアーのスケジュールを考えたら来週しか無いだろ?」
スケジュールを思い浮かべて成程と思った。
「まぁ何とかなるよ。」
トシくんは明るく言った。
「まぁ、準備するのはトシくん達だもんな。」
僕が皮肉ると、
「へぇー、アキはもう心の準備出来てんだー。」
トシくんが言った。
僕は焦りながらも、
「出来てる。」
ハッキリと言った。
二人は優しく笑った。
10時。
メンバーと少数のスタッフがロビーに集まり、水色のワゴンに乗り込んだ。
二代目『リンダ』だ。
ライブハウスの下見と、リハーサルをして、昼過ぎまでは自由行動だ。
「ハコまでどの位?」
「20分位。」
狭いハコだった。
今夜は暑くなりそうだ。
リハーサルは難無く終わり、街をぶらぶらする事にした。
地下には様々な店が広がり、沢山の人の波に逆らわず歩いた。
雑貨屋に立ち寄り、服屋に入り、本屋に着いた。
好きな作家の新刊がいつの間にか出ていた。
表紙の絵と、帯の文句に興味を惹かれ買ってみた。
好きな作家と言っても、出す本全て買っている訳では無い。
気の向いた時に時々買うだけだ。
喫茶店で昼食を摂り、煙草を吸いながら、買ったばかりの本に目を落とした。
現実にある都市で起こる、現実の様なフィクション。
昔から恋愛小説はあまり好きではなかった。
物語の中に恋愛があるのは別に構わないが、
恋愛をメインにした小説は読む気になれなかった。
店員がランチセットを運んで来た。
スパゲティとサラダ、最後に珈琲を置くと、
「あの…。」
僕の視線は、スパゲティからお盆を持つ両手へ、そして店員の顔へ移動した。
「はい?」
「あの…AiR-styleのアキさんですよね?」
緊張しているのか、彼女の肩には力が入っていた。
「あ…はい。」
答えると、
「今日、ライブ行きます!頑張って下さい!」
と笑った。
「ありがとう。」
握手とサインを求められたので、それに応じた。
「ありがとうございます!」
深々と礼をして、店員は立ち去った。
それから1時間位、本を読み続け、少し早いがライブハウスに戻る事にした。
『seeds』の裏口に、タカシが居た。
煙草を吸いながら座るタカシに、
「何してんの?」
と聞くと、
「曲順をね、考えてるんですよ。」
「それはそれは。暇なんだ。」
タカシは笑った。
「お前は?今夜集中出来るか?」
僕は苦笑いで首を振った。
「全然。アヤと逢う時の事ばっか考えてしまうよ。
実際、リハーサル中も、街を歩く時も、喫茶店でも、本を読んでいても、
気を抜くとその事ばかり考えていた。
「何話したら良いのかって?」
その通り。
と答える代わりに、両手の人差指でタカシを指した。
正直に不安な思いを打ち明けたら、少し楽になった。
「ま、今日逢う訳じゃないんだからそんなに緊張すんなよ。」
頷いて見せても、意識せずには居られなかった。
辺りが薄暗くなり、次第に、『seeds』へ向かう人の流れが出来ていた。
僕は、道の反対側、コンビニの前に座ってそれを眺めていた。
結構気付かれないもんだ。
と、思っていたら、一人の女性と目が合った。
気付かれた。と思ったら、それは昼間の喫茶店の店員だった。
彼女はクスリと笑って、拳を胸の前で揺らした。
頑張れのジェスチャーに、僕は笑顔で答えた。
そのままライブハウスに向かうのかと思ったら、
少し先の横断歩道で、こちらに渡って来た。
友達だろうか、もう一人の女性と一緒だ。
「こんばんわ。」
同じ挨拶を返す。
「びっくりしましたよ。気付かれないですか?」
「うん。情けないけどね。」
僕が笑うと、
「そりゃ、CDにも雑誌にも殆ど顔出して無いですもん。」
彼女も笑った。
「今日はまぁ、楽しんでって下さいよ。」
「もちろん。あ、あたし三島悠って言います。こっちは友達の理奈。」
理奈と呼ばれた友達は、軽く会釈して、
「坂下理奈です。」
と自己紹介した。
「マジで?坂下って言うの?僕も坂下だよ。」
「そうなんですか!?知らなかった!!」
坂下理奈は一気に緊張が解けた様だった。
「じゃあ坂下さんって呼ぼうかな?」
三島悠が言った。
「いやいや、アキで良いよ。」
僕は苦笑いした。
「あたしも、ユウで良いです。」
「あたしも。」
少し話していたが、人の目が気になったので、
僕はライブハウスに戻る事にした。
「じゃ、また後で。」
「あ…。」
リナが僕を呼び止めた。
「あの、携帯…聞いても良いですか?」
少し悩んだが、教える事にした。
「誰にも教えないでね?」
一応念を押しといた。
「はーい、エスタのみなさーん。後30分で開演ですよー。」
トシくんが楽屋に入って来た。
「んじゃ、最後に曲順のチェック。」
タカシが言う。
「はいよー。」
僕とトオルとトシくんはタカシのいるテーブルに集まった。
1:Fire Starter
2:real
3:FOOL3
4:s²aw
5:Ash
6:Same name
7:reason
8:葡萄
E-1:シンパシー
E-2:月夜
E-3:エース
「うん。これで良いと思う。」
僕が言うと、他の三人も頷いた。
「じゃ、今日合わせて残り5箇所、頑張ってこう。」
トシくんが言うと、
「6箇所だよ?」
タカシが笑った。
日輪町…。
少し沈黙が走った。
しかし、皆の顔には笑顔があった。
そして、いよいよ本番。
舞台袖で4人が集まる。
「アキぃ〜?大丈夫かぁ?」
タカシの言葉に、僕は苦笑いした。
「頼むぜ?」
トオル。
「お前等もな?」
「っしゃあ!来週は故郷に凱旋っつービッグイベントが待ってるけどぉ、
とにかく今日は今日の事考えて!!今日が無きゃ明日は来ねぇ!!解ってんな!?」
「オウ!!」
「今日も飛ばしてくぞぉ!?AiR-style!!」
「おぉー!!」
4人で拳を突き上げた。
「はー、行こ行こう。」
僕が言うと、
「リーダーあっついよ。」
とトシくん。
「んじゃ今日もまったりゆったりで。」
トオル。
「ぉー。」
力無く拳を上げる。
「お前等なぁ〜…。」
タカシは呆れて言った。
ステージに岡本真夜の『TOMORROW』が大音量で流れ始めた。
観客は今夜最初の歓声を上げる。
頭の中は日輪町でのライブの事でいっぱいだった。
来週は日輪町でこんな風にライブをするんだ…。
考えるなと思っても、余計に考えてしまう。
今日に集中しなければ。
焦りが増して行く。
(アキーっ!!)
(アキさーん!!)
(タカシくーん!!)
(トオルーっ!!)
まるで人事の様に歓声を聴いていた。
最初の曲が思い出せない。
急に汗が噴き出した。
焦りはどんどん大きくなって行く。
(タカシーっ!!)
タカシがちらりとこちらを見る。
心配してるんだ。
(アキーっ!!)
それとも僕を待ってる?
ベースから始まる曲なのか?
頭が混乱する。
その時だった。
「坂下さーんっ!!」
恐らく、ユウとリナだろう。
はっきりと聞こえた。
突然苗字を呼ばれ、我に帰った。
最初のベースラインを奏でる。
すぐにタカシとトオルが入る。
「Fire
Starter!!」
僕が叫ぶと、観客達は弾け飛んだ。
それから先は、凄く集中出来た。
狭いライブハウスに熱が渦巻く。
「えっと、今日は、昼過ぎまで暇してて、地下で軽く買い物とかして、あ、後は喫茶店に行ったら、そこの店員さんが今日来てくれてるみたいです。」
歓声が飛ぶ。
「後、ついさっき、まぁそこの前のコンビニに居たんだ。皆がここを目指して歩いてる時ね。」
えーっ。と声がする。
「皆気付いてなかったんだけどね。それで、さっき行った喫茶店の店員の子が気付いて、声掛けてきたんだけど、その子の友達が、坂下さんって言うんだけど、苗字が同じだったんだよね。」
おーっ。と感嘆の声が飛ぶ。
「皆知らなかったのかな?坂下アキです。よろしくお願いします。」
言うと、笑い声に変わった。
(坂下ー!!)
と呼ぶ声もする。
「って事で、次の曲、Same name!!」
大きな歓声の中、シンバルが鳴った。
アンコールも終わり、楽屋でぐったりしていた。
「何か、今日は結構MCしてたね。」
トオルが言う。
「Same nameの前だけでしょ?」
「あぁ。」
「今日はあの子達に助けられたからね。紹介しとこうと思って。」
「助けられた?」
「一番最初、僕、頭が真っ白になってさ。あの子達が『坂下!!』って叫んだのが聞こえたんだ。それで我に返った。」
「成程ね。」
煙草の灰を落とした。
「浮気すんなよ〜?」
タカシが茶化す。
「バーカ。」
僕はゆっくりと煙をくよらせた。
来週か…。
また、頭の中がいっぱいになりそうだった。