第四十話

「プラチナ」

ユミ、マナ、シズカ、そしてあたし。
会社名決定祝賀会と称して、四人は集まった。
各々好きな飲み物を手に乾杯した。
ユミ、マナは缶ビール、シズカはチューハイ。
あたしはやはり、ミネラルウォーターだった。

未だにミネラルウォーターしか飲めないあたし。
アキと別れて半年位は、御飯を作り、それでも食べる事が出来た。
だが次第にそれが出来なくなった。
しかし、生きていく上で栄養を摂らなければならないと言う事は、
水だけの生活が始まってから直ぐに痛感する事となった。
それでも、やはり固形の食物は幾ら努力しようとも、喉を通らない。
吐くのだ。
そんなあたしが唯一、どうにか摂取する事を許した物は、
ゼリー状の健康食品だった。
飲み物の様な食事。
いや、食事が飲み物なのだ。
後はサプリメント。
咀嚼する事自体困難なあたしは、丸呑みする事で一日の必要摂取量を確保する事が出来るサプリメントを、栄養素別に幾種類も呑んだ。
但し、幾ら小さな錠剤とは言え、呑み過ぎるとやはり嘔吐してしまう。
そして、健康食品やサプリメントで補い切れなくなり、
どうしても眩暈や嘔吐が治まらない時は、点滴を打ちに医者へ行く。
ひと月に一度位の割合だ。

「アヤは呑まないの?」
マナは早くも頬を桜色に染めていた。
「うん。アルコールは苦手なんだ。」
あたしが苦笑いで返すと、マナは鋭く言った。
「アヤ、二人には言おうよ。」
その言葉にあたしは一瞬躊躇った。
何も知らない二人は、やはり、何も知らない顔であたしを覗き込んだ。
あたしはゆっくりと口を開いた。

アキと出会い、次第に惹かれて行った事、一年間の付き合い、
別れ、そして始まった「水の生活」…。
ミネラルウォーター以外喉を通らない事、入浴や洗顔、
手を洗うのにもミネラルウォーターだと言う事。
そんな生活がもう1年近く続いていると言う事…。

「…普段のアヤ見てたら…そんな事全然気付かなかった…。」
マナ。
「あたしも。いつもミネラルウォーター飲んでるな、って言うのは思ってたけど…。」
シズカ。
二人の表情は急速に暗転した。
そんな雰囲気を払拭しようと、あたしは勤めて明るく言った。
「そんな深刻にならないで?もう慣れたし、それ以外は全然普通なんだから。その内普通に御飯も食べれる様になるでしょ。」
「でも、いい加減克服するべきじゃない?」
ユミは、楽天的なあたしの発言を嫌う様に言った。
「ユミ…。」
あたしは目を伏せた。
「ま、今日は祝賀会なんだし。それに、あたし達が仲良くなった記念でもあるんだからもっと明るく行こうか。」
ユミは一転して明るく言い放った。
あたしに気を遣ってくれてるのが良く分かる。

「そうそう。アヤの特別な能力についてだったよね。」
マナが言う。
「特別な、って。そんな大したもんじゃないよ。」
「そんな事無いよ。結構凄い事だと思うけどなぁ。」
シズカはチューハイを一口飲んだ。
「じゃあ、実験してみようか。」
ユミは悪戯な笑みを浮かべて立ち上がった。
「ちょっと何する気?」
ユミは何も言わずに本棚から一冊の本を取り出した。
「じゃあ今からパッと見せるから、1ページ全部覚えてね?」
「ちょっとユミそれ辞典だよ!?」
「大丈夫だって。アヤならこんなの直ぐ覚えれるよ。」
全く…。
「どうぞ?」
あたしは呆れて言った。
「じゃあ行くよ〜?はいっ!」
と、ユミは英和辞典を開いて見せた。
「5,4,3,2…。」
「もう良いよ。」
あたしはユミの秒読みを遮った。
「もう覚えたの!?」
シズカの言葉に、あたしは苦笑いで答えた。
「それじゃあ、どうしよう?順番に言ってもらう?」
「じゃ、そうしよっか。」
「はいはい。」
あたしはゆっくりと、口を開いた。
最初の単語を言う、
「え?この記号も言うの?」
発音記号や、辞典独特の記号が散在していた。
「あー、記号はいいや。」
「えっ!?記号も覚えてんの!?」
「記号は無しね。」

一つ、二つ、単語とその意味、例文を続けていく。
「…凄い…。」
マナは声を漏らした。
それもそうだろう。
辞典を暗唱している人なんて、あたしも見た事無い。
「あ、この単語読めない。」
あたしは頭の中のイメージの、15個目の単語で止まった。
「んじゃあスペルだけで良いよ?」
「ん。」

あたしは英語なんて得意じゃない。
発音記号も読めない。

「これ、次のページも行く?もう良いっしょ?」
あたしが聞くと、
「次のページも覚えたの!?」
「え?だって見開き全部じゃないの?」
「うわぁ…あ、じゃあ最後、次のページの、えーっと七つ目の単語をお願い。」
「七つ目ぇ?えーっと、あ、これか。」
頭の中の辞典の1ページ。それをゆっくり読む。

止まった。

air…。



shinに逢った。
「何の用ですか?」
あたし達は、あまり良く思われていない様だった。
shinに逢うのはこれで二度目。
一度目は、殆ど言い合いの様に終わった。
あたし達はshinのコピーを完全否定し、
shinはコピーを主張した。
結局双方譲らぬまま、話し合いはものの五分で幕を閉じたのだった。

「やっぱり、オリジナルの曲を作る気は無い?」
あたしは努めて冷静に言った。
あたしの横にはユミとシズカが座っている。
「無いですね。カバーやオリジナルには何の魅力も感じない。」
「でも、あんた達がやってるコピーも、原曲はオリジナルでしょ?」
ユミは強気に言った。
喫茶店のクーラーは寒いくらい。
「そんな事は解ってるよ。」
ギターの真島佑介が言った。
ユウスケは、shinのリーダーだ。基本的に話し合いもユウスケとする。
「まず、私達の意見を聞いて頂けますか。一度聞いてもらってると思いますが、もう一度確認して欲しいので。」
シズカは、完全にビジネス口調で言った。
「解りました。」
shinの三人は、気持ち椅子にもたれ、聞く体制になった。
ユウスケはアイスコーヒーを一口飲んだ。

あたし達のプレゼンが始まる。

あたしはゆっくりと話し出した。
「あたし達は、FRESH SUMMER BERRYを成功させたい。今、沢山のバンドを検討して、もう五組のバンドが決まった。円町からは、『水神』も出る。水神は知ってるよね?」
あたしは円町のHIPHOPグループを挙げた。
ベースの牧野いちるは、水神の名を聞くと、少しだが反応を見せた。
「知ってるみたいだね。」
一呼吸置いて、続けた。
「FRESH SUMMERを成功させるには、あなた達の力がどうしても必要なんだ。」
「何でそんなに俺達を気に掛けてくれるんですか?」
イチルが言う。
あたしは唇だけで笑うと、
「正直、あなた達のテープを聴いた時は衝撃だった。曲がエスタだったからかも知れない。とても身近な曲だったから、あなた達のセンスを垣間見る事が出来たんだと思う。あなた達は本当に完璧なコピーをするから、他の曲だったら、判らなかったと思う。」
「そんなにエスタの事好きだったんすか?」
ドラムの神田樹は少し訝しげな顔をした。
視線をイツキに向ける。
「ええ。あたしはAiR-styleが大好きだった。彼らの曲も、空気も、一人一人も。あたしだけじゃない。少なくとも、ここに居る三人はそう。」
あたしが言うと、ユウスケは鼻で笑った。
「ただのファンじゃん。いちファンが偉そうな事言わないで下さいよ。」
「ただのファンじゃないっつーの。」
ユミは我慢ならないと言う様に入り込んで来た。
「ユミ。」
あたしが止めようとすると、
「アヤは黙ってて。良い?アヤはねぇ、坂下さんの彼女だったんだよ?」
あたしは少し俯いた。
「坂下?」
イチルが首を傾げた。
「あ、アキの事。」
あたしが付け加えると、shinは多少驚いたが、
「彼女『だった』って事は、今はもう別れたんだろ?じゃあ今更そんな事言う権利無いじゃん。」
と、ユウスケは唇の端を上げた。
「このガキ…。」
ユミが拳を固めると、シズカが冷静に口を開いた。
「でも、ユミさんは今もタカシさんの彼女ですよね?」
「あ。そうだ。」
ユミは拳を緩めた。
「解ったよ。あんた達が有名人の知り合いだって事は。だから何?」
ユウスケは少し苛々していた。
アイスコーヒーを何度も口に運ぶ。
「もう、そろそろ本題に入った方が…。」
シズカがメガネを持ち上げた。
「そうだね…。明後日は空いてる?」
「明後日…?空いて無いですね。」
ユウスケが言うと、
「丁度そのエスタのライブに行くんです。」
とイチルが付け加えた。
「何だ、興味あるんじゃん。」
ユミが溜め息と一緒に漏らした。
ユミはアイスティーを一口。
「ユミ。」
あたしはユミを注意し、
「それなら丁度良いね。明後日のエスタのライブ、特等席で見せてあげる。」
と続けた。
「特等席?」
イチルが聞き返す。
「超、特等席よ?いっちばん前の席。それも真ん中。」
今回のライブは日輪町の総合体育館で行われる。
総合体育館は、バスケットコートが三つもあり、かなり広いので、
全席指定で、勿論二階席もある。
そして、デビューして初めての地元で、急なライブだと言う事もあり、
今となっては前から五列目までの席は、かなり高額な値段で取引されていた。
最前列の真ん中の席など、値段が付けられない。
と言うより、shinの三人と、あたし達の為にAiR-styleが空けてくれた席なので、
他の人間には入手不可能な席なのだった。

「どうやってそんな席取ったんですか!?」
「とったと言うか…貰ったんだけどね。」
あたしが言うと、先程の話…あたし達とAiR-styleとの関係を思い出した様で、
直ぐに納得した様だった。
「で?あんた達の席は何列目?」
「二階席の正面の右側の方…。」
イチルが正直に言うと、
「お前言うなよ…。」
ユウスケは頭を抱えた。
あたしはそんな様子に微笑んで、
「勘違いしないで欲しいのは、あたし達はあなた達の敵じゃないって事。寧ろ、あなた達をデビューさせようと必死なんだから。」
そう言い、封筒をテーブルの上に置いた。
「ここにチケットが三枚入ってる。今では『プラチナチケット』なんて言っても大袈裟じゃなくなってるチケットよりも、もっと良い席だよ?勿論お金なんて要らない。あたし達は、あなた達にAiR-styleのライブを見て、何かを感じて欲しいの。」
「一枚20万でも安い位よ?」
ユミが笑う。
「ユミ。」
全く。

シズカがアイスコーヒーに口を付けた。
イチルはコーラ。イツキはアイスティー。
あたしはと言うと、やはり何も頼んでいない。
喫茶店でミネラルウォーターのボトルを出す訳にも行かず、
かと言ってお冷にも口を付けられないで居る。

「何かを感じるって…。」
shinは少し困った様な顔をした。
「もう知ってるかな?今回のライブは、エスタの曲は一曲もやらないらしいの。」
「え?」
「知らなかった?今回は、全曲カバーなんだって。急なライブでしょ?それもエスタの我侭でやるから、レコード会社との関係でね。」
「エスタの、カバー…。」
「あたしは、これは招待だと思って欲しくない。」
shinがあたしを見る。
「これは、BERRY…ううん、WaterLight Labelからの、shinへの初仕事だと受け取って欲しい。」
「ウォーターライトレーベル…?」
shinは揃って首を傾げた。
あたしは黙って三人の前に名刺を一枚ずつ滑らせた。
「BERRYレコードは、新たにインディーズレーベルを立ち上げます。あたしはそのレーベルの部長。解り易く言うと副社長ね。そして、あなた達は、WaterLight Labelの第一号バンドに…なるかも知れない。」
最後は少し悪戯に笑って見せた。
ユミみたい。

「仕事って言うのはどう言う事ですか?」
ユウスケが問う。
「うん。今回のライブ、ただのオーディエンスとして参加するんじゃなく、あなた達も、同業者として、AiR-styleと言う先輩のライブを参考にして欲しい。自分達ならこうする、とか、こう言う演奏を試してみたい、とか…ここら辺に関してはあなた達の方が良く解ってると思う。とにかく、何か一つでも、得る物があると思う。それを持ち帰って欲しい。その為に、あたし達はそのチケットを用意したんだから。」
「別にあんた達じゃなくても、その席に座りたい人は大勢居るんだよ?」
ユミは意地悪に言った。


「…解りました。」
ユウスケは呟いた。
「ただ、俺達がコピーをやめるかどうかは、解らない。今でさえ、やめたくない気持ちで一杯なんだから。ただ、本当に、松田さんの言う様に、何か得る物があって、俺達が感化されて、コピーじゃなく、オリジナルの曲を作りたいと思ったら、俺達は素直にそうする。」
ユウスケはそう続けると、他の二人に「良いよな?」と確認を取った。
他の二人は真剣に頷いた。
「ありがとう。絶対に得る物はあるよ。エスタのライブは、本当に凄いから。」
あたしが言うと、
「あなた方がオリジナルの曲を作って頂けるのでしたら、WaterLight Labelは、全力を以ってサポート致します。」
シズカがビジネス的に話を纏めた。
「解りました。俺達だって、デビューしたい。だけど、自分達の考えは曲げたくない。お互いに納得できる形で、この話を進めて行きたいと思います。」
ユウスケの目には真っ直ぐな光があった。
「ありがとう。」
あたしはもう一度御礼を言った。
「でも、ダセェ曲作ったらクビだからね。」
ユミがまた、悪戯に笑った。
あたしは呆れて笑った。

「じゃあ、明後日、五時にここで待ち合わせましょう。」
シズカが言う。
「あ、忘れてた。ライブ終わったらエスタに逢う?」
ユミが言うと、
「逢えるの!?」
三人が同時に言った。
ユミはその勢いに少し戸惑い、
「う、うん。つーか打ち上げにでも一緒に行こうかなって思ってるけど、来る…?」
「行く!!!」
イチルが叫んだ。
「つーかなんであんたらあたしにはタメ口なんだよ…?」
あたしは、また笑った。

でも、同時に、心の奥でチクリと棘が刺さる。

アキとの再会は果たしたが、やはりまた逢うのは緊張する…。
前回逢った時は、仕事と時雨の話だったので幾分は気が楽だったが…。


次は何を話そう…?