第四十一話
「無限」
胸が高鳴る。
昨日の夜から、全く落ち着かない。
気を抜けば体が震えてしまう。
遂に、この日が来たのだ。
AiR-styleのライブは約二年振りだ。
あたしが緊張する必要は無いのだろうが、
それでもやはり、アキに逢う、アキの演奏を聴く、見る…。
そう言う期待や不安が、あたしに緊張をもたらす。
総合体育館の玄関に並ぶ列は、およそ500m。
全席完全予約制なので、急ぐ事は無いのだが、
それでも長蛇の列だった。
開演前の物品販売を目当てにしているのだろう。
先日の喫茶店で待ち合わせたあたし達は、その列に加わり、時計を確認した。
体育館の玄関の方には、大きく『無限』の文字が見える。
今回のライブのタイトルだ。
午後六時。
会場まで後30分もある。
shinの三人と、あたしとユミと山下。
そして、shinが元々持っていたチケットを使い、
シズカとマナ、そしてアキのお母さん、瑞穂さんが着いて来た。
「目の前で見た方が良いんじゃ無いですか?」
あたしは言ったが、
「もうトシだからね。それにあたしは時雨の音を聴きたいだけだから。」
と、二階席に甘んじたのだった。
その事を思い返し、あたしはshinのベース、イチルに声を掛けた。
「イチルくん、今日のアキの演奏、よく聞いておいてね?」
イチルは首を傾げた。
「そりゃ聞きますよ。」
「うん。でもね、今回のライブから、ベースの音が変わってると思う。」
「?…どう言う事ですか?」
「アキ、ベースを変えたの。きっと凄い良い音出すと思うんだ。」
「そうなんですか…分かりました。」
「ん。」
ここに並んでいる全員が、
今日、AiR-styleがどんな演奏をするか誰も知らない筈だ。
全曲カバーと言うのは聞いていたが、どんな曲を演るか、ユミも教えてもらえなかったらしい。
今日は誰のカバーをするのか、そんな予想を九人でしていると、
ユミの携帯電話が鳴った。
「タカシだ。」
その言葉に、前に並んでいる人がチラリとこちらを振り向いた。
ユミは気にしないふりをして、
「あ、もしもし?どうしたの?」
と、少し小さめの声で電話に出た。
前の人は、気の所為だろうと、視線を外した。
「えっ?何言ってんの?うん…うん…それで?もう時間無いでしょ?」
何かあったのだろうか…あたしは心配になりユミを見た。
目が合うと、ユミは困った様に首を傾げた。
「分かった。じゃああたし達はここに居るね?本当に大丈夫?うん。」
そう言い、ユミが電話を切ると、
「何かあったの?」
マナが訊ねた。
「うん…。」
ユミは一度俯いて、あたしの顔を見た。
「坂下さん…居なくなっちゃったんだって…。」
「えぇっ!?」
あたしは思わず声を出した。
周りの人が一瞬こちらを見る。
あたしは小声で続けた。
「ほんと?」
ユミが頷き、
「どうすんの?」
シズカは腕時計を見た。
もう、開演まで時間が無いのだ。
「なんか、前から乗り気じゃなくて、ウチの彼氏と、もう一人が強引に話を進めたらしくて、もしかしたらそれが嫌で…。」
タカシくんとトオルくんの事だ。
「逃げちゃったんですか?」
ユウスケが心配そうに言った。
あたし達がどう答えて良いか判らずに居ると、
「大丈夫ですよ。」
瑞穂さんがハッキリと言った。
あたし達は一斉に瑞穂さんを見た。
瑞穂さんは落ち着き払った様子で、
「宅の息子はそんなに無責任な人間じゃありません。」
と笑った。
何故か、その一言であたし達は全員が落ち着きを取り戻したのだった。
大丈夫。
大丈夫。
それからあたし達は必要な言葉しか交わさずに、30分が経った。
会場は6時40分だった。
10分の遅れが、あたしの奥底でチクリと傷む。
物販に並ぶ人達を横目に、入り口付近で瑞穂さんら三人と別れ、
あたし達六人は席に着いた。
体育館にはAiR-styleの曲が流れて居た。
頭から、AiR-styleの曲はしないと言う事なのだろう。
会場には数え切れない程のパイプ椅子が整然と並べられ、
体育館の床を傷付けない為に、フロアにはラバーの絨毯が敷かれていた。
「広いねぇ。」
ユミが漏らした。
あたし達はそれから暫く話しを続け、時計を見ると、もう50分経っていた。
「まだかな…?」
もう、何度目になるだろうその言葉を、今度はイツキが漏らした。
「そろそろでしょ。」
あたしがした返事も、何度目になるだろう。
7時25分。
体育館の電気が、ゆっくりと暗転する。
歓声が響く。
始まる…。
「始まる…。」
あたしは思わず声を漏らした。
気が付くと、周りの人達は皆立ち上がっていた。
「ほら、アヤ。」
ユミに促され、あたしも遅ればせながら立ち上がる。
心臓は、かつて無い程のビートを刻んでいる。
急に真っ暗になり、あたしの視界には黒しかなかった。
そんなあたしの目に飛び込んで来たのは、とても大きく真っ白な、
たったの二文字。
―無限―
今日のライブのタイトルでもあるその言葉が、
ステージに設置された大きなディスプレイに映し出された。
会場はその言葉に目を奪われた。
そして、其の二文字の真ん中に立つ…人影。
アキ…?
そう思った瞬間、その人影にスポットライトが当てられた。
「…え?」
誰?
それは女性だった。
完全に下を向いていて、顔は判らないが、
長く伸びる黒髪は、女性のそれだった。
異変に気付いた観客からざわめきが怒る。
「誰?」
そんな声があちこちから聞こえる。
あたしの頭の中で、タカシくんの、アキが居なくなったと言う言葉が駆け巡る。
その女性はゆっくりと顔を上げ、手に持ったマイクを口元に充てた。
誰なんだろう…でも、凄く綺麗な人。
舞台に立つと言うのに、あたしやユミよりも薄いメイク。
大きな目と、長い黒髪が光る。
可愛らしい顔立ち…あたしと同年代か、年下?
女の子…そして唇がゆっくりと開いた。
「Summer days---,」
第一声で、会場全体が飲み込まれた。
なんて綺麗で、芯の通った声…。
「I can't stand the summer days.」
それはDo As Infinityの『SUMMER DAYS』だった。
そうか…だから『無限』…。
それにしても…アキは何処…?
そんな疑問を他所に、彼女は物凄くゆっくりなSUMMER DAYSを歌い続ける。
「Frozen cocktails and night fireworks, what's so great about them anyway-----?」
その歌声は、あたしの耳に心地よく響く。
高く透き通っている様で、少しハスキーだが、とても綺麗な声。
こんなに優しい声で、囁く様に、sex on the beachなんて歌う?
最初のサビの終わりから、ステージが急に明るくなった。
タカシくん、そしてトオルくん。
会場は思い出したかの様に一気に歓声を上げた。
サビを歌い終えた彼女は、そのまま歩いて向かって左に歩いた。
マイクをスタンドに納め、そして、肩に掛けたそれは、真っ黒に光っていた。
「時雨…?」
あたしは口に出したが、それは誰にも聞こえていなかった。
彼女は会場を見渡して、一度唇の端を持ち上げた。
なんて…可愛いのだろう。
そして、お腹に響く重低音が会場を包んだ。
あたしは息を呑んだ。目を見開いた。
これが…これが時雨の音…。
そしてSUMMER DAYSは、曲調を変える事無く続いた。
正直あたしは、いや、会場の誰もが途中からハイテンポになるのだろうと思って居た。
だがその予想は、優しく裏切られたのだった。
SUMMER DAYSを聴きながら、彼女の声を聴きながら、あたしは怒りに震えていた。
それはアキに対する怒り。
時雨を…お父さんが遺した、大切な時雨を、他の人に貸すなんて…。
アキにとってはどうでも良い物なの?
楽器を置いて…本当に逃げ出したの?
冗談じゃない!!!
…それとも…!!
あたしは新たに生まれた仮定に、また震えた。
今度は…不安?
そう、恐怖にも似た不安。
もしかすると…彼女は、アキにとって時雨を貸しても何の支障も無い程に、
…大切な人なの?
いつの間にかSUMMER DAYSは終わっていた。
「こんばんはぁ。AiR-styleでぇす。」
タカシくんが笑う。
歓声が渦巻く。
「皆驚いたと思うけど、今日はちょっとアキが体調を崩してしまいまして…。」
その言葉に、会場全体が悲鳴に似た声を上げた。
体調を崩した…?
「言い訳?」
あたしはユミに聞いた。
ユミは首を傾げるだけだった。
「まぁまぁ、その代わりと言っては何ですが…紹介します!!天から舞い降りたキュートな助っ人!!亜美ちゃんです!!!」
ここで、歓声が上がる…と思って居た。
が、会場はざわついただけだった。
アミ、そう呼ばれた彼女は、困った様な、泣きそうな顔をした。
「あんまり苛めちゃ駄目だよ〜?」
タカシくんも困った様に言った。
「どうしたの?」
あたしがユミに聞くと、
「あんた聞こえなかったの?さっきの。」
ついさっきまで、あたしは怒りや不安に我を忘れて居たのだった。
あたしが苦笑いで頷くと、
「最初、あの子ど真ん中に居たでしょ?それで、トオルくんとかぶってて、トオルくんのファンが『トオルくんが見えない』とか、『どけ』とか、結構言ってたんだよ?」
「えぇ?」
「皆最初はびっくりしてたんだけど、落ち着くと凄かったよ?後、坂下さんのファンが『アキを出せ』とか、『あんた誰?』みたいな事も言ってた。」
「ほんとに?…なんか、可哀相かも…。」
「でも、仕方無いよ。イキナリ坂下さんのポジション取っちゃってんだから。」
「うーん…。でも、もしかすると…。」
あたしは言葉に詰まった。
「何?」
「もしかすると、アキにとっては時雨を渡すほど、大切な人なのかも知れない…。」
「はァ?まさか!」
あたしだって、そんな事思いたくない。
けど…どう説明するの?
「アミちゃん、何とか言ってやってよ。」
タカシくんがアミを見た。
アミは困った様に、苦笑いで手を横に振るだけだった。
「ま、皆?アミちゃんの歌声はアキのお墨付きなんだから。さっき聴いたから判るでしょ?取り敢えず安心して、二曲目行きますかぁ?」
タカシくんがそう言った瞬間、アミの顔が後のディスプレイに大きく映し出された。
一瞬、息を呑む会場。
そして、一気に爆発したのは、男性ファンだった。
雄叫びに似た歓声が響く。
アミの容姿に、会場中の男性が魅了された。
後ろの方の席の観客は、アミの顔まできちんと見えなかったのだ。
その歓声に、タカシくんは、
「オォッケェオッケェ。アミちゃんまずは会場のオオカミ共をイチコロっ!!」
と笑った。
アミはその言葉に、困った様に笑った。
しかし、緊張はあまりしていない様に見える。
舞台慣れ…してる?
「じゃ、この調子で二曲目っ!!」
トオルくんのシンバル。
タカシくんは跳ねる様にギターを掻き鳴らした。
アミも、細い指でベースを鳴らした。
複雑な会場の雰囲気は、取り敢えずは曲を楽しむ事に纏まった。