第四十四話

「キス2」

「おー、来たなー。」
タカシくんが手を上げる。
居酒屋の広い座敷にタカシくんとトオルくん、
舞台袖でライブを見ていたメグと、あと一人は知らない女性だった。

アキは?

「おー、広ーい。」
ユミが言う。
「トオルくん久し振り。」
あたしはトオルくんに手を振った。
「こ、こんばんは…。」
シズカ、マナ、shinは緊張の面持ち。
「なに緊張してんの?」
ユミが笑う。
「あれ?」
アキが居ない…。
白々しく表現した。
「あ、アキ捜してる?」
タカシくんは、にやっと笑った。
「もう…。」
あたしが照れて居ると、
「アキは何かファンの子に捕まって遅れるよ。」
トオルくん。
「ファン?」
「早く逢いたいの?」
またタカシくん。
「べっつに!いつからそんなサービス精神旺盛になったのかなって思って!!」
「怒るなよー。」
「もうタカシ!?あんまアヤ虐めないで!!」
ユミは言うが、
「普段アンタがやってる事と同じよ?」
とシズカ。
「お。やるねお姉さん。」
トオルくんが笑うと、メグが睨んだ。

「紹介するね、会社の友達で、シズカとマナ。んでこっちはご存知、ウチのヒットメイカー、shin。」
「初めまして。松田部長、高野総括係長の『部下』、営業係長の倉下シズカです。」
シズカは『部下』をかなり強調した。
「『平社員』の浅見マナですー。」
マナまで。
「ちょっと何その言い方ー?」
ユミ。
「やっぱり立場を明確にしとかなきゃね。」
「あはは。面白いなぁー。」
「はっ、初めまして!」
ユウスケは大きな声で叫んだ。
緊張しか見えない。
「shinのギターのユウスケです!!」
「まぁまぁ、力抜こうよ。」
タカシくんもタジタジ。
「スイマセン。ベースの牧野いちるです。」
「かぁーっ!!何でベーシストってどいつもこいつもこんなに落ち着いてんだよ!?」
トオルくんは吐き捨てた。
「何それ!?ウチの可愛いタマゴに文句付ける気!?」
あたしが言うと、
「だってアキにしてもイチルくんにしてもさぁ…」
「確かにね。」
メグも笑う。
「あ、こちらはスタイリストのむらっちゃん。今日のアミちゃんのメイクもノーギャラで手掛けてくれました。」
タカシくんが言うと、女性は頭を下げた。
「『美容師』の村田ユカです。スタイリストはバイトです。」
「スタイリストの仕事の方が儲かってんだよ?」
タカシくんはみんなに聞こえる小声で言った。
「うっさい!!」
ユカさんはそう言うと、
「アヤさんの話はみんなからよく聞いてます。」
「えっ?えっ?何か変な事言ってませんでした!?」
「えっと…アキの将来の奥さんだって…」
「誰が言ったの?」
言うと、ユカは黙ってタカシくんを指差した。
「おいっ!!」
「だーってそーなったらいーなーって思ってさー。」

「ったく…。」
ったく…。

「ま、アキを待ってるのもアレだし、乾杯しやすかぁ。みんな飲物頼んでよ。」
タカシくん。
「いよっしゃあ〜。」
マナはメニューを見ながら舌なめずり。
「アヤは…」
メグが心配そうにあたしの隣に座る。
あたしは苦笑いをしながらミネラルウォーターのボトルを鞄から出した。
「まだ…そうなんだ…。」
「まーね。少しは食べれるけど…やっぱり戻す事が多いかも。」
「そか…。」
「でもそんな心配しないで?大丈夫だから。」
「うん…。」

それぞれが飲み物を注文し、それは直ぐに運ばれて来た。


「じゃあ、皆グラス持ってー?」
タカシくんが言うと、それぞれがグラスを掲げた。

タカシくん、ユミ、トオルくん、メグ、ユカ、シズカ、マナ、ユウスケ、イチル、イツキ、あたし。
合計11個。

「んじゃ、今日は皆俺達のライブに来てくれてありがとう!!最高のライブが出来ました!!乾杯!!」
「かんぱーい!!」
ミネラルウォーターを一口。
渇いた喉が濡れるのがわかる。
「ねー、shinはどんな曲やるの?」
タカシくん。
「いや…まだハッキリとは決めてないです。でも、自分達に合う音楽をやろうと思ってます。」
とユウスケ。
「合うかどうかより、好きな音楽やんなよ。」
タカシくんは笑った。
「アンタ達は好きにやり過ぎなの。」
ユミはタカシくんの肩を小突いた。
「こういう傲慢なレコード会社の言う事聞いて型にハマっちゃダメだよー?」
「うっさい!!ウチはそんな事しないのー。」
「お願いしますよ?」
イチルが笑うと、
「ま、アドバイスはさせて戴きますけどね。」
シズカが言った。
「ほらぁーっ!!大人怖い大人怖い!!」
タカシくんはシズカとユミを交互に指差した。

そんなやり取りを眺めながら、
「あいつ等って自由だよね。」
ユカが言った。
「ええ。だからあんなに良い曲が書けるんだと思います。」
あたしが言うと、
「やだ、あたし同い年だよ?」
「えっ!?そうなんですか!?」
「そうだよー?タメ口でいいよ?」
ユカは明るい笑顔を見せた。
「今日のアキのメイク、村田さんがやったの?」

「むらっちゃんでいいよ。それかユカ。」
「ゆ、ユカで。」
「あはは。確かにむらっちゃんはオカシイよね?あいつ等が名付けたんだよ?…あ、質問に答えてなかったね。うん。今日のメイクはあたし。最後まで女装で通す予定だったんだけど、アキの事だからどうせ途中でヅラ取るだろうなって思ったから、ヅラ取っても違和感無い様にかなり薄いメイクにしたよ。」
「パットしなかったのもそれで?」
「まぁ、それもあるけど、ベース肩から掛けてるとパット邪魔でしょ?途中でズレても困るし。」
「あはは。確かに。」

「…あたしね、あなたに逢うの楽しみだったんだ。」
ユカは梅酒ロックを一口呑んだ。
「あ、あたしもアヤで良いよ。」
「うん。あのね、アヤってどんな人なんだろってずっと考えてて、今日なんて緊張しちゃった。」
そう言って最後には笑った。
「えー?なんで?何か恥ずかしいなぁ。」
あたしも、ミネラルウォーターを一口。

「あのね…正直言うと、あたしアキの事好きだったんだ。」


「お前それ俺の唐揚げだろぉーっ!?」
トオルくんが叫んでる。



「そっか…。」
あたしはグラスの中の水面を見ながら一口飲んだ。
「微妙な反応だね。」
ユカは苦笑い。
「うーん…アキを好きになる気持ちはホントによく解るから、何も言えないし、言える立場じゃないしね。」
彼女な訳でも無いし…。

「なんか安心した。て言っても、今は弟みたいな感覚だけどね。」
「あ、ユカってお姉さんって感じする。」
「そうかなぁ?アキにもいつか言われた気がする。」
「でしょー?」


「大体ねぇ、イチルはちょっと落ち着き過ぎなんだよ。もっと呑みなさい!!そしてハイになってみろ!!」
「マナさん酔ってる…?」
「マナさんだなんて他人行儀な!!マナって呼んで?」
「はいはいマナー?始まってからまだ30分だよぉー?」
メグがマナを世話する。
不思議な光景。
別々に知り合った友達通しが、あたしを通さずに仲良くなってる。
なんか笑顔になる。

「ごめんねイチルくん。」
シズカ。
「いえいえ。楽しいっす。」
イチルは笑った。
「楽しいなら良いっ!!!」
タカシくんは親指を立てた。
「アンタは黙ってな。」
ユミがタカシくんの頭を掴む。
「照れんなよ。いつもみたいに甘えて良いんだぜぇ?」
「バッ…!!」
「えーっ!?ユミ甘えてんのぉー!?」
「ち、違う!!」
ユミは真っ赤になって両手を振った。
「いーじゃん見栄張るなよぉ。」
「もーっ!最低!!」



「アキの事、まだ好きなの?」
ユカ。
「直球だねぇ…。」
「回りくどい事言ってもねぇ。」
「好きだよ。と言うか、アキ以外の人の愛し方なんてもう解らない。」
「あ、それって名言かも。」
「あはは。そう?」
「でも、あんた等こそ回りくどいよね。さっさと寄り戻しちゃえば?」
「うん…お互いね、誤解してたって解ってるし、謝りたい、話し合いたい…だけど、時間的にも気持ち的にも、タイミングがズレちゃって、ズレた部分を埋められずに居るんだ。」
「難しいんだね…。」
「本当は、凄く簡単な事なんだと思う。自分達でややこしくしてるだけ。それと、少し怖いんだ。」
「何が?」
「アキに逢うのも、アキと付き合うのも、完全に別れるのも。どう転んでもね。」
「どう言う事?」
「アキと付き合ってた頃は、ホントに幸せだった。でも、今はそれは思い出でしかない。何て言うか、リアルじゃないんだ。アキとやり直したい、けど、それがリアルになるって考えると、不安。前みたいに戻れるのかな?って。」
「成程ね。」
「あとは、アキにフラれて、アキや、エスタと完全に切れてしまうのが一番怖い。」
「エスタとも?」
「もう、友達には戻れない。ギクシャクしちゃうから、アキと完全に切れてしまったら、こんな風に皆で呑むなんて出来ないよ…。それなら、このまま付き合わずに、友達に戻りたい。」
「そっかぁ…。」
「なんか湿っぽくしちゃったね。」
「んーん。あたしから持ち掛けたんだし。」
「でも、ユカに話しながら、自分でももやもやしてた部分が整理された気がする。」
「それなら良かった。」
あたしとユカは、グラスをぶつけた。



「アキ遅ーい!!」
「アキ遅ーい!!」
タカシくん、ユミにマナ、ユウスケ、イツキ。
皆でアキに文句を言っている。
「…にしても確かに遅いねぇ。」
シズカとトオルくんがユミ、マナを宥めながら言う。
メグとユカはタカシくん。
「ファンサービスなんて今日はほっときゃ良いんだよー!!」
タカシくんが叫ぶ。

イチルと一緒にユウスケとイツキを宥めながら、
「今何時頃?」
「11時半。」
始まってから2時間半。
確かに遅い。
「大丈夫かな?」
あたしは心配になって来た。
「電話は?」
シズカ。
「酔っ払い共がさっきから何度も掛けてるみたいだけど。」
ユカはそう言いながら自分の携帯を取り出した。

「酔っ払いはアテになんないしなぁ。」
何度かプッシュして耳にあてる。
「…ダメ。圏外。」
「電池切れてんじゃないすか?」
イチル。
「どっちにしろ、アキは場所知ってんだから用が終わったら来る筈。」
とトオルくん。
「まだファンの子と一緒に居るのかな?」
イチルが言うと、
「それか、何かあったか…。」
ユカの言葉に
「何かって!?」
あたしは少し取り乱した。
「それは判んないけど…」
ユカを困らせてしまう。
そんな事判る筈も無いのだ。

「ファンの子って?」
イチルはトオルくんに聞いたが、
「知らない。つーか今日の観客の中の一人か二人だろ?わかんねぇって。アキも知ってんのかどうか怪しいぜ?」
「俺、捜しに行って来るよ。」
イチルが言うと、
「アンタはあたしと酔っ払い共の世話。アヤ、アンタ行って来て?」

あたしが?
「あたしが?」

「ニューシャインズ・イン、ヒノワってホテル、わかるだろ?」
トオルくんは笑った。
日輪町では一応大きめのホテル。
直ぐにホテルまでの道程が頭に描き出される。
「もうチェックアウトしてる。多分ロビーに居る筈。」

「わかった。」
「あたしも行く。」
シズカが言ったが、
「感動の再会だろ?邪魔しちゃ悪いよ。」
とトオルくん。

あたしは鞄と携帯を持って店を出た。


とにかく走った。
居酒屋を出て、脇目も振らず、硬いアスファルトの上を駆けた。
何故か気持ちが焦る。
『逢いたい』と言う気持ちは、最早忘れていた。
ただ、『心配』。
それだけがあたしの足を早めるのだった。

ホテルまでは徒歩15分。
かなり走ったつもりだったが、10分近く掛かった。

ホテルの自動ドアを抜け、エントランスへ入る。
アイボリーの絨毯が広がるロビー。
見渡しても、アキは居ない。
ロビーの中央で首を左右に振って一心不乱にアキを探していると、
心配した従業員が、声を掛けてきた。
「どなたかお捜しですか?」
オールバックが光る30代前半。
「今日チェックアウトしたと思うんですけど、坂下明と言う名前で泊まっていた人なんですけど…。」
どう伝えて良いのか判らない。
「坂下様…少々お待ち下さい。」
オールバックの男性は、受付の女性に事情を説明し、あたしの元へ戻って来た。
「お客様のプライバシーの関係もございますので、あまり詳しい事は言えないのですが、坂下様はもう既にチェックアウトを済ませております。」

そんな事はわかってんのよ。

「ありがとうございました。」
あたしは早口でお礼を言い、外に飛び出した。
頬を汗が伝う。

自動ドアを抜けると、外の空気があたしを通り抜け、ロビーに流れ込んだ。

「アキ…。」

間違い無い。
この香り。アキの煙草だ。
あの頃は、一番近くに居た香り。
あたしを安心させるあの香り…。

何処…?
「何処…?」

あたしは暗がりに目を光らせる様に辺りを見回した。

何でこんなに焦っているんだろう…?


ホテルのエントランスを出て直ぐ左手に、小さな公園の様な場所があった。
ホテルの庭だろうか?そこには幾本かのライトが立ち、
緑の木々を柔らかく照らして居る。

あたしは草木の生い茂った庭の円周に沿って小走りで回った。
庭の中心に続く道を見つけ、少し歩を緩めた。
その道に入る。


その庭は、周りから見ると草木が生い茂っていて、中心の広場は見えないが、
この道に入ると、広場が直ぐ近くに広がる。
その眺めは、なんとも綺麗で、あたしはその美しさが、

憎かった。


アキ…。

アキが居た。
ほんの10メートル先。
ライトは広場を照らしていて、その光の中、二人はとても綺麗に見えた。

アキと、知らない女性。
二人の口づけは、神秘的とも言える程、眩しかった。

女性は後姿しか見えず、誰なのかは判別出来ない。
それでも、あたしの知る後姿ではないと判った。
アキの目は大きく開いていて、どんぐりの様に丸く、きらきら光っていた。
アキの目線は、あたしから離れない。
立ち尽くすあたしと、見知らぬ女性とキスするアキ。
そんなあたし達は呆然と見詰め合っていた。

何これ…?

理解出来なかった。
理解なんてしたくもなかった。

身体が生暖かく、気持ち悪かった。
なんだろう…?
あたしは、何を求めて走っていたんだろう?
あたしは、何を探して走っていたんだろう?

気持ち悪い生暖かさが、次第に広がって行った。
ぴちゃぴちゃと、水の跳ねる音が聴こえる気がした。

あたしは一部始終を、ただ見守る事しか出来なかった。
永遠に続く苦痛の様に長いキスは、そのシーンを充分にあたしの脳に焼き付けて終わった。


「アヤ…?」
アキの声。
耳に懐かしい、アキがあたしの名前を呼ぶ声。

女性がこちらを向く。
やはり、知らない人。
女性はあたしを見て、驚いた様に口を手で押さえた。

生暖かさが、ゆっくりと現実になって行く。
水音が、次第にハッキリと聴こえて来る。

「アヤ…お前…。」
アキが何を言いたいのか、解らなかった。


目の前の二人に全て注がれていた意識が、少しずつ、あたしの身体に戻って来る。

この生暖かさは何…?
この水音は…?

あたしは下を見た。
あたしの真下で、水が跳ねて居る。

え…?
「え…?」



あたしは一瞬で全てを悟った。
そして、絶望を知った。


これは…おしっこ?
理解したと同時に、急に顔全体が熱く燃え上がった。
膝の力が抜け、その場に腰を落とす。


べちゃ。


耐え切れない程の下品な音が、静かな夜に響いた。
なんて汚い音…。

状況が正確に判断出来ない。
どう言う事??
なんであたしはおしっこを漏らしているの!?
意味が解らない。
なんであたしはそれに今まで気付かなかったの!?
様々な思いがあたしの中を駆け巡る。
それでも、訳が解らない。
それなのに、自分が失禁したと言う事実だけは、
鋭利な刃物の様に鮮明にあたしを斬り付ける。

好きな人の…大好きな人の目の前で失禁した…。
あたしは汚い女。
あたしは…汚い。
恥ずかしい。
恥ずかしい女だ…。



馬鹿みたい。
心配して、汗って、走って、やっと見付けたのに…。

馬鹿みたい。
アキに逢えるって、不安を感じながらも、浮かれてた。

馬鹿みたい。
やっと見付けたアキは、知らない女とキスしてた。
綺麗な場所で、綺麗に光って、キス…してた。

あたしは何?
馬鹿みたい。
そんな二人を邪魔する様に、目の前で…失禁するなんて…!!!


アキを見る。
アキの隣の女を見る。
二人の目は、あたしに…あたしの下半身に注がれていた。

顔が熱くなる。
身体が熱くなる。
全身が熱くなる。
どんどん熱くなる。


見ないで!!!
見ないで!!!
見ないで!!!

見ないで!!!
見ないで!!!
見ないで!!!
見ないで!!!
見ないで!!!
見ないで!!!


見ないで!!!見ないで!!!見ないで!!!見ないで!!!見ないで!!!見ないで!!!


お願い見ないで!!!



「いやあああああああああああああああああああああっ!!!!!」







二人の目に耐え切れなくなり、あたしは一目散にその場を走り去った。
きらきらと、ほとばしる水滴を飛び散らせながら…。
「そこにあたしが居た」と言う証拠の、汚い水溜りを残して…。

気が付くと、家に居た。
ホテルから家までの記憶なんて、無い。
それでも、目に、脳に焼き付いた二人のキスは、今も消える事は無い。
二人の、あたしを哀れむような目も…。