第四十六話
「ひとり」
『酔拳』に着くまでに、涙は渇いていた。
好都合なのかも知れない。
皆に泣き顔を見られずに済むから。
足取りは重く、普通なら10分か15分で付く筈が、たっぷり20分以上掛かった。
ビルは5階建てで、2階から上は全て居酒屋だった。
『酔拳』は3階。
エレベーターで上がると、直ぐに居酒屋が広がる。
生温い空気に今夜は嫌悪を覚えた。
「いらっしゃいませ〜〜。」
店員が眩しい笑顔で迎えてくれる。
僕は会釈だけすると、
「あ、皆さん奥におられます。」
店員は僕の事がわかった様で、指の揃った手で方向を指示してくれた。
僕はもう一度会釈して、その方向へ進む。
チラリと、メグミの顔が見えた。
直ぐに目が合い、メグミは手を上げて僕を呼んだ。
「ごめん。遅くなった。」
「大丈夫。」
広い座敷に上がり、部屋を見渡すと、意識がしっかりしているのは半分。
メグミ、トオル、ユカと、初対面の男と女。
タカシと高野が寄り添う様に寝ていて、別の初めて見る男が二人、寄り添って寝ている。
もう一人、見た事の無い女が意識のしっかりしている初対面の男の膝で寝ている。
訳がわからなくなって来た…。
10人中半分の5人が初対面なんだから。
「お前遅いよ。アヤに逢った?」
ユカは吸っている煙草で僕を指した。
「…うん。」
僕が口籠っていると、
「なんかあった?アヤは?」
メグミが優しく声を掛けてくる。
「いや…。」
「取り敢えず出るか。」
トオルが言った。察してくれたのかも知れない。
「…悪いな。」
僕がトオルにそう言うと、
「アキさん。」
初対面の男が僕に声を掛けた。
「初めまして。shinのベースをやってます。牧野いちるです。」
イチルは軽く会釈した。
「あ、えっと、AiR-styleのベースの、アキです。」
「知ってます。」
イチルは少し笑って、
「今日は本当に来て良かったです。感動しました。僕等、ちょっとお邪魔みたいなんで、もう帰ろうと思います。」
と言い切った。
「え…?」
「悪いな、イチル。」
トオルが言った。
「いえ。でも、僕等3人、AiR-styleの皆さんに逢うのを本当に楽しみにしてました。僕は、特にアキさんに逢いたかったってのが本音です。また、別の機会で逢って欲しいです。」
「うん。前に君等の『SUGAR SONG』聴かせてもらったよ。今日はごめん。近い内に、一度ゆっくり話そう。」
僕が言うと、
「はい。ありがとうございます。」
イチルはゆっくり笑った。
僕等は寝ている人間を起こして、外に出た。
夜風は幾分か、皆の酔いを醒ましてくれた様だった。
「どうする?」
目の覚めたタカシが場を纏める。
「あたしは帰るよ。明日仕事あるし。アキィ、ちゃんと後であたしに説明するんだよ?」
ユカは僕に笑い掛けた。
「ああ。」
僕はそれだけ言った。
shinの3人も帰り、メグミも、喜美が心配だと言って帰る事になった。
「メグミだけ帰らせる訳にも行かないからな。」
そう言って、トオルも帰ってしまった。
残ったのは僕とタカシ、高野、そして初対面の2人の女だった。
「えっとぉ、二人はあたしとアヤと同じ会社の子で、マナと、シズカですー。」
高野はまだ酔っている。
「あ、スイマセン。ユミ酔ってて…あたしは松田部長の部下で、でも、友達で、えっと、とにかくあたしの名前は浅見真奈です。」
もう一人の女が浅見を落ち着かせ、
「すいません。この子の場合は緊張してしまってて。あたしもしてますけど。あたしは倉下静香と申します。」
倉下と名乗る真面目そうな女が会釈した。
僕も返して、
「今日はすいません。遅れてしまって。」
「いえ。それより…。」
倉下は言葉を続けようとしたが、
「えっと、俺とユミとアキとマナちゃんとシズカさんで5人だろ?別の居酒屋入ろうか。」
タカシが倉下を遮った。
「まぁ、そこでゆっくり話しようよ。」
タカシも、察してくれている。
場所を移動する為に、5人は歩き出した。
「どうしたんだよ?」
完全に酔いの醒めたタカシが僕に囁く。
「うん…まぁゆっくり話すけど…。」
「アヤちゃんの事だろ?」
僕は頷く。
「ヤバイのか?」
「…結構、ヤバイ。」
僕の言葉を聞いて、タカシは深い溜め息と共に頭を抱えた。
「ったく…お前等はなんでそうなんだよ…。」
僕は黙って居るしかなかった。
「ちょっと、ユミのカバン貸して?」
タカシは高野のカバンを持っている倉下に言った。
高野は浅見に肩を借りて歩いている。
そしてカバンの中から携帯電話を取り出すと、電話を掛け始めた。
「アヤに掛けてんの?」
僕が尋ねると、タカシは
「ダメだ。電源切れてる。」
「そっか。」
10分程歩いて、『酔拳』と似た様な居酒屋チェーン店、『唐草屋』に足を踏み入れた。
個室に案内してもらうと、僕とタカシが、高野、倉下、浅見と向かい合って座った。
全員がソフトドリンクを注文し、店員は少し首を傾げた。
高野は烏龍茶をコクコクと飲むと、落ち着いた様だった。
「それで…アヤは?逢ったんですよね?」
高野は鋭く言った。
「アヤは…多分、帰った。」
僕が言うと、
「多分?どう言う事ですか?」
高野は眉をひそめた。
「逢って、話したんだろ?」
タカシが言うが、僕は首を振った。
「一言も話して無いんですか?」
倉下が言う。
僕は、正直に話した。
一人で歩いている間に、そうしようと心に決めていた。
「僕は、ファンの人に逢ってて…ファンって言っても、この前のライブに来てくれた人で、友達になったんだけど、その人と逢う前に、僕楽屋で寝ちゃってて、それでかなり遅くなったんだ。それで、僕はその人とホテルの前の庭園で軽く話してから『酔拳』に向かおうと思っていたんだ。」
「起きたのって、何時頃ですか?」
倉下が聞く。
「えっと、11時頃。」
「アヤがアキさんを探しに『酔拳』を出たのが11時半だから…ちょうどアキさんがホテルに着いた位じゃないですか?」
僕は頷く。
「ユカさんが何度か電話したんですけど、電源切ってましたよね?」
「あ、電池が切れてたんだ…。」
「もしかして、ファンの子って女ですか?」
高野が聞く。僕は頷いた。
「めんどくせーから名前教えろよ。」
タカシ。
「リナ。」
「オッケー。」
「もしかして、バッタリ逢っちゃって、アヤがまた勘違いして帰っちゃったとか?」
大筋では、当たってる。でも…そんなに簡単な問題じゃない。
「大体そんな感じだけど…。」
僕が言うと、
「じゃあアヤにさっさと話して、誤解を解いちゃえば済む話ですねっ。」
浅見が笑った。
「いやー、そんな簡単な話なら、アキもこんなに落ちて無いでしょ?」
タカシが言う。
僕は俯いてしまった。
「どう言う事ですか?」
「アヤと逢った時、僕は、その…リナと…キスしてた。」
「はぁっ!?」
僕意外の全員が驚いた表情を向ける。
「ちょっと待てよ!何でそう言う話になんだよ!?」
タカシが焦っている。
僕は何も言えなかった。
「それで、アヤはどうしたんですか?」
高野は冷静に僕に言った。
「アヤは…ショックを受けて…」
失禁したとは言えない。
正直に話すと言っても、そこまでを僕の口から言う権利は無い。
「帰ってった…。」
僕が言うと、高野は大きく息を吐いた。
そして、急に立ち上がった。
「冗談じゃないっ!!意味わかんないよっ!!坂下さん何考えてんの!?アヤがどんな気持ちで今日、ライブに来たかわかってんの!?坂下さんと別れてからアヤ、あんなんなっちゃって、未だに飲み物はミネラルウォーターしか飲めないんだよ!?御飯だって殆ど食べられないし!!これ以上アヤを追い詰めないで!!!」
一気に言い切ると、高野は肩で息をした。
「ユミ、落ち着け。」
タカシが言うと、
「落ち着いてられる訳無いでしょ!?何年もずっと曖昧なままで!!他に好きな人が出来たなら、アヤと付き合うのがもう無理なら、ハッキリしてよ!!何なの!?アヤをあんなに苦しめといて、自分は最近知り合ったファンとチュー!?ふざけんな!!」
「ユミっ。とにかく座れ。」
タカシは少し強く言った。
倉下がユミを宥め、席に着かせた。
「どうなんだよアキ、言われっ放しか?なんか弁解する事があんだろ?」
僕は大きく息を吸って、吐いた。
「悪いのは、僕だ。それは変わらない。僕が何を言っても。」
「なんだよそれ…。」
タカシは溜め息交じりに言った。
「そんな事は分かってんだよ。けどな、アヤちゃんとは何も話して無いんだろ?状況はお前しか知らない。違うか?」
「ああ。」
「どっちだよ。」
「違わない。」
「じゃあ教えてくれよ。何で知り合って間も無いファンとキスなんかしたんだよ?お前はそんな奴じゃないって、俺が知ってる。」
「タカシが僕の事をどう思ってるのか判らないけど、僕はこういう人間だよ…結局、またアヤを…。」
言葉に詰まる。
「坂下さん、アヤに逢いに行ってあげて!!今すぐ!!あたしたちには良いから、アヤにはちゃんと弁解してあげてよ!!」
高野は涙目で訴えた。
それも、考えた。
アヤがあんな事にならなければ…僕はそうしていたかも知れない。
「それは出来ない。」
僕が言うと、
「何故ですか!?アヤはあなたに逢いたいと思ってる筈です!!」
倉下が叫んだ。
「坂下さんはアヤに逢いたくないの!?」
「僕がどうこうじゃない。アヤの為に…僕は行かない方が良いと思うんだ。」
「何で!?そんなのおかしいよ!!アヤの所為にして逃げてるだけじゃん!!」
「ユミ…。落ち着いてくれ。アキ、お前がそう言うって事は、それなりに何かあったんだな?アヤちゃんに逢えなくなる様な事を、してしまったんだろ?」
僕は、キスを見られた。それだけだけど、アヤは…
僕に…最も見られたくないだろう姿を見られたんだ…。
僕は頭を下げた。
「えっ?坂下さん?」
高野が戸惑う。
「頼む…アヤに逢いに行ってやってくれないか?僕が行くと、アヤはまたショックを受けると思う。」
「じゃあ坂下さんは行かないんですか?」
「僕は、行けない。」
僕がハッキリと言うと、
「勝手にしろ!!あたし行ってくる!!!」
高野は立ち上がった。
「おいっ!!ユミっ!」
タカシが叫ぶ。
「ユミっ!?」
倉下と浅見がそれを追う。
「また、ゆっくり聞かせてもらうからな?お前はとにかくコウキの家に行ってろ。俺も直ぐ行くから。」
今日は、コウキの家に泊まる事になった居たのだ。
だが、今夜はコウキの家で呑み明かす様な気分じゃない。
「ああ。」
僕は返事だけして、目の前のコーラを半分流し込んだ。
個室に一人だけ残り、僕は溜め息をついた。
頭を抱えて、煙草を咥えた。
火を点けずに、頭を抱えた。
また、溜め息が漏れる。
僕とアヤの歯車は、いつからこんなに狂ってしまったんだろう…。
フィルターが湿った煙草に火をつけて、煙を吸い込んだ。
泥の様な味がして、顔をしかめる。
煙草を消して立ち上がり、レジに向かうと、
「お会計はお連れの方が済ませて帰られました。」
と言われ、僕は黙って外に出た。
時計を見ると、もう2時前になっていた。
ここからコウキの家まではタクシーで10分位。
歩こうか迷っている間に、行く気が失せた。
公園で不味い煙草を一本吸って、漫画喫茶に入った。
システムがよく解らなかったが、どうせ寝るだけだ。
あまりに簡易で、あまりに簡素な個室に入ると、上着を脱いで飲み物を取りに行った。
ファミレスのドリンクバーの様な感じで、好きな飲み物を自分で取る。
僕はスポーツドリンクをチョイスして、零さない様に注意しながら個室に戻った。
ゴクゴクと冷たいドリンクが喉を通るのを感じ、少し安堵した。
直ぐに寝ようと思っていたが、目の前で既に立ち上がっているパソコンを目にして、
検索サイトを開き、
『WaterLight Label』
と入力し、エンターキーを叩いた。
相当な数のページがヒットし、僕は公式サイトをクリックした。
一度画面が真っ白になり、そこに雫が一滴落ちた。
波紋が広がり、渦になって、レーベルのロゴが揺らめきながら出て来た。
綺麗なエフェクトに魅入っていた。
enterをクリックすると、ロゴが水で流され、変わりに幾つかのコンテンツが浮き上がった。
レーベル紹介やバンドの紹介等があり、僕はバンドの紹介をクリックする。
shinの情報が見たかったのだ。
しかし、shinの次には、水神の名前があった。
「あれっ?」
思わず声を出してしまった。
神聖な静寂の暗がりに、僕の声が響いた。
僕は頭を抱えて苦笑いした。
ショータのヤツ、CDデビューってウォーターライトからかよ。
CDを出すって話は聞いていたけど、レーベルまでは聞いて居なかった。
「やられたなぁ〜。」
僕は小さな声で呟いて、水神の紹介文を読んだ。
「ギターとDJと言う、変則的なHIPHOPグループ。
しかし、確かなサウンドに、ボーカルのT2Yが乗せるリリックは一度聴いたら耳から離れない。」
おぉー。凄いね。T2Yって誰だよ。
まさかタツヤか?
僕は一人でにやけながらshinの紹介も見てみた。
「スリーピースとは思えない程安定感のあるサウンド。スリーピースならではのパワー。若干19歳!!」
あいつらってジュークだったんだ。若っ。
イチル、だったよな。妙に落ち着いてたヤツ。
どこか、心の中で引っかかっていた。
前にあった事がある訳でも無いし、嫌いな訳でもない。
むしろ、好印象を受けた。
僕はスポーツドリンクを飲み干して、煙草に火を点けた。
パソコンをシャットダウンして、スタンドライトを消した。
目に見えるのは煙草の火種だけ。
アヤは、今頃どうしているだろうか…。
アヤとは、もう逢えないのだろうか…。
確執、とは行かないまでも、互いに逢えば辛くなるのなら、
もう二度と、会わない方が良いのかも知れない…。
僕は煙草を消して、ソファのリクライニングを倒した。
世界に、僕しか居ない気がした。
世界中で、僕だけが悪者の様な気がした。