第四十七話
「最低」
灰色の空に、ぼんやりと夏の三日月が浮かんでいた。
気付けば、あたしは家に帰って来ていた。
自然と溜め息が出る。
空のペットボトルが散乱する部屋。
透明なボトルが、月明かりに細かく荒い光を放つ。
ぼうっと、それを見ていた。
急に、恐ろしくなった。
身体が震える。
震えを止めようと、必死で自分の肩を抱く。
何処からかカチカチと硬い音がする。
それが何の音か、理解するまでに少し時間が掛かった。
あたしは、自分が歯を打ち鳴らすほど震えている事にも気付かなかったのだ。
歯を食い縛ると、不快な音はようやく止んだ。
力を緩めると、再び鳴り出すから、あたしはずっと歯を食い縛っていた。
力いっぱい、目を閉じる。
肩を抱き、膝を曲げ、歯を食い縛る。
あたしは部屋の隅、小さく、小さく、震えていた。
あたしは最低だ…。
このまま、消えて無くなれば良いのに。
あたしは神に、自己の存在の消滅を懇願した。
何度も、何度も…。
近くに転がる幾つかのボトルを跳ね除ける。
水だ。
ミネラルウォーターばかり飲んでいたからだ…。
あたしは何度も頭を振った。
そうに決まってる。水ばかり飲んでいたから、おしっこなんて…。
きっとミネラルウォーターがあたしの膀胱を柔らかくして、
きっとミネラルウォーターがあたしの尿道を緩くして、
だから…あんな…アキの目の前………
「いやっ、いやっ…」
あたしは拒絶し続けた。
現実を、数時間前と言う過去を。
最低なあたしを。
おぼつかない足取りで立ち上がり、トイレに向かった。
家に帰ってから何度目だろう…そんな事は覚えていない。
いちいち数えてもいない。
何度も何度も、気が済むまで便器に座り込んだ。
Tシャツ一枚。下着なんて要らない。
どうせまた、トイレに行くのだから。
あたしは狭く四角い空間で、独り、下を向いていた。
尿意なんて無い。それでも、きっと膀胱にはおしっこが残っている筈。
あたしは必死だった。
拳を握り締め、歯を食い縛り、下腹部に力を入れ続けた。
既に尿道には激しい痛みを感じていた。
それでも、出さなきゃ…。
数滴、雫が落ちた。
あたしのお尻の下で、小さな水音がした。
あたしは安堵し、そこをペーパーで押さえトイレを出たのだった。
また、同じ場所に縮こまる。
何してんだろう…あたし…。
最低。
涙が溢れだした。
一度頬に筋を作った涙は、同じ道を何度も流れた。
あご先から、腕に落ちる涙。
つい今しがた、排泄した尿の量よりも、多い。
そう思うと、更に涙は溢れて来た。
「何で…?」
あたしは唇を噛み締めた。
何処からか電子音が聞こえた。
涙でぼやけて、何の音なのか判別するのに時間が掛かった。
あたしは顔を上げた。
呼び鈴だ。
誰か…来た。
あたしは顔を伏せた。誰が来た所で、迎える事なんて出来ない。
「アヤ!!アヤ!!居るんでしょ!?」
ドアを叩く音と共に、声が聞こえた。聞いた事のある声…ああ…ユミだ。
「アヤ!!開けて!?お願いだから!!」
この声も知ってる。シズカだ。
ドアを開ける?何を言ってるの?そんな事出来る訳無いじゃない。
「ねえ!!アヤ!!開けてよ!!」
この声は、マナだ。
きっと皆であたしを笑いに来たんだ。23にもなって、外で、人前で失禁した女を…。
「アヤ!!坂下さんは居ないから!!」
どうせあの女とホテルに入ったんでしょ?今頃二人で、あたしの姿を思い出して笑ってるんだ…。
それでも良い…あんな姿を見られて、アキの顔なんて見たくない。
そんな事になるなら、死んだ方がマシ。
あたし知ってるんだ。
皆あたしを笑ってるんだ。
「何があっても!!あたしらはアンタの味方だから!!」
ビクッ!!
ユミの言葉に、身体に力が入る。
途端にあたしは叫んだ。
「帰って!!帰ってよ!!どうせ最低なあたしを笑いに来たんだ!!」
喉が痛い。水を飲みたい…でも、駄目…。
「アヤ!!やっぱり居るんじゃない!!帰んないよ!!ねえ!!何があったの!?」
知ってる癖に…。
「帰ってよ!!あたしの気持ちなんて解らない癖に!!」
「解んないよ!!でも解りたいの!!アヤに何があって、今、何を思ってるのか!!だから聞かせてよ!!話をさせてよ!!」
「嫌だ!!嫌だ!!これ以上あたしを追い詰めないで!!」
「ねえ!!何があったの!?何がそんなにアヤを追い詰めてるの!?」
知ってる癖に!!
「知ってる癖に!!」
「知らないよ!!坂下さんは何も教えてくれなかった!!アヤに何があったのかは!!」
『は』?
「じゃあ…ユミは何を知ってるの…?」
気が付くとあたしは、ドアの前で俯いていた。
「…坂下さんと、ファンの女の子が…キス…してる所を、アヤは見たんでしょ…?」
「…それだけ?」
「これ以上は、坂下さんは教えてくれなかった。」
「アキ…は?」
「アキは居ないよ。コウの家に行った。」
急に聞こえたタカシくんの声に、少し戸惑った。
「坂下さんは、アヤの為に来ない方が良い、って言ってた…。」
ユミ。
「アキさん、アヤがショック受けるからって…。」
マナの声は今にも消えそうだ。
アキ…あたしに気を遣ってくれたの?
「ね、開けて?少しで良いから、話しよ?アヤが疲れる様なら、直ぐに帰るからさ。」
シズカは優しく言った。
それでも、さすがにタカシくんに話す事は出来なかった。
あたしにだって羞恥心は残っている。
「…た、タカシくんは…」
あたしが言おうとすると、
「オッケー!タカシはもう帰すから。ほらタカシ帰って!!」
「いや、でも…。」
「女同士の方が良いの!!早く帰って!!」
ユミ…。
「アヤ!タカシはもう帰ったから!!ドア、開けてくれる?」
「…うん。」
あたしはドアチェーンとロックを外した。
ドアが開く。
「ユミ…。」
あたしが言うと、ユミの目は、まずあたしの下半身に注がれた。
「あ…アヤ…?」
あたしはユミの視線を辿る。
あたしは下半身に何も身に付けていなかった…。
「あっ、あっ、あの…。」
あたしはあらわになっている部分を隠そうと、必死に手で押さえた。
また…あの感覚…。
今度は、直ぐに解った。
生温い感触が、あたしの両足を伝って降りて行く。
「あっ、いやっ…」
あたしは必死でそれを拒絶しようとする。
何とか堪えようと、力を入れる。
何とか流れを止めようと、手で押さえる。
が、無駄だった。
これが…あたしの身体…?
ユミを見る…。
ユミの目には、哀れみが籠もっていた…。
あの時の、アキの目と同じ…。
「ああ…。」
あたしの身体から、力が抜けた。
そしてまた、その場に腰を落とした。
べちゃ。
この下品な音を聞くのは今夜で二度目。
今夜で二度目…信じられない…。
「もぉ…やぁ…。」
あたしは泣きながら呟いた。
子供の様に、両の拳で両の目を押さえながら。
生温い涙が頬を伝い、冷たくなった尿が、下半身を冷やした。
…あたしは、最低だ。