第四十九話
「虹」
僕の気持ちにはまるで関係無しに、時間は過ぎて行った。
僕は家に帰るとTシャツを脱ぎ捨て、コカ・コーラを喉に流し込んだ。
田中は今日も「おかえり」と、僕を迎えてくれる。
「ただいま」
田中に微笑みかけると、コンポのスイッチを入れた。
以前貰った、水神のデモCDをチョイス。
ツアーが終わり、ようやく一息つけると思ったが、そうも行かなかった。
夏はまだ始まったばかり。
今年のサマーフェスティバルに出演が決まっていたのだ。
それも三つも。
一つは『JAPAN ROCK FES.』…恐らく日本で一番大きな野外ライブだ。
様々なアーティストが参加し、いくつものステージがある。
僕等は、三日連続で行われる内の二日目に出演する。
もう一つは『FIRE BALL』、数年前から始まったサマーフェスで、規模は小さいが、
有名なアーティストが出演する。
そして、『FRESH SUMMER BERRY』…。
アヤが手掛けているイベントだ。タカシに聞いた時は驚いたが、だからと言って出演を拒否する理由にはならないし、
何より、僕がアヤに出来る事は、このイベントを成功させる事以外に無いと思えた。
田中に霧吹きをかける。
田中は嬉しそうに棘を濡らした。
それを見て僕は笑って居た。
なぁ田中…僕はどうしたら良いのかな??
田中は何も応えず、ただ棘を輝かせるだけだった。
あの夜から、一週間が経った。
僕は疲れた身体を浴槽に浸した。じんわりと、疲労がお湯に溶けて行くのがわかる。
熱いシャワーを頭から浴びて、髪を洗う。
独りだからか、風呂の中では考え事をしてしまう。
頭の中は、やはりアヤの事を考えていた。
もう、アヤと付き合う事も、まともに逢う事も出来ないだろう。
僕等が顔を合わせれば、あの夜の出来事を思い出してしまうに違いない。
僕等は、互いに傷付き過ぎた。
逢わなければ、傷付く事も無くなる。
自分が傷付くのが怖いんじゃない。
もう二度と…アヤを傷付けたくないんだ…。
一通り身体を洗った僕は、立ち上がって、冷たいシャワーを浴びた。
駄目だ。こんな事では、こんなネガティブな考えではこれから仕事なんて出来ない。
僕等はまだまだルーキーだ。集中しなければ。
目の冷める様な水温で、シャワーは雫となって僕の身体を流れ落ちて行く。
実際、ツアーのファイナルは散々な物だった。
ライブにまるで気が入らなかった。
ライブの後、タカシに怒鳴られた。
「お前が辛いのは解ってる…でも、プロなら集中しろ。」
其の通りだと思った。
僕一人の所為で、AiR-styleにも、スタッフやハイスピンレコードにも迷惑が掛かる。
キュッ。
シャワーを止めて、濡れた髪から雫が落ちるのを見ていた。
しっかりしろ。
身体を拭いて、冷えたコカ・コーラを一気飲みした。
炭酸が喉を刺激する。涙が出る。
涙は、止まらない。
カーテンを開くと、街の喧騒が直ぐ傍に広がっていた。
月が、弱い光を放っていた。
その姿はあまりに脆く、あまりに儚くて、僕はそれを憂う以外に何も出来なかった。
ごめんな。僕は君を助けてやる術を持ち合わせていない。
君を思って、泣く事しか出来ない僕を、どうかその光で照らしてくれ…。
僕は弱い人間だった。
いつの瞬間に於いても、何も出来ない。この手を差し伸べる事さえも…。
例えば僕が水だったなら、何もしない内に空へ舞い上がり、
やはり、君の元に降り注ぐのだろうか。
君の元へ行きたいと願うだけで、君に触れたいと望むだけで、
それだけで君を濡らしてしまうなら、
それだけで君の体温を奪ってしまうなら、
それが解っていたなら、僕はいつまでも、空に浮かんでいるだろうか。
例え僕に、君の悲しみを洗い流す事が出来たとしても。
例え僕に、君の涙を隠す事が出来たとしても。
僕は涙を拭って、月に向かって微笑んだ。
大丈夫。僕は泣いてなんかいない。
笑えば心も晴れるんだ。
コンポの電源を落として、田中に霧吹きをかけた。
「吹っ切れた?」
田中が僕に尋ねる。
「さぁね…でも、少なからず僕は前を向いているよ。」
そう、笑い掛けると、田中も安心した様に笑った。
いても立ってもいられなくなり、タカシに電話を掛けた。
「どうしたんだよ?夜に電話して来るなんて珍しいな。」
「ちょっとね、吹っ切れた。」
「何が?」
「今までの事。何も解決した訳じゃ無いけど、前向きに頑張ろうと思ってるよ。」
「そうか。」
「タカシや、皆には沢山迷惑掛けたけど、これからは僕は、AiR-styleの一人として、やれるだけの事をやるつもり。」
気付くのが遅いかも知れないけどね、そう笑うと、
「大きな前進だな。よく頑張ったよお前は。」
タカシは言ってくれたんだ。
僕はまた、少し泣きそうになったけど、何とか堪えた。
「ありがとう。それだけだから、じゃぁ。」
「ああ。俺達はまだまだ、こんなもんじゃねぇ筈だろ?」
「ああ。僕等はまだまだ、可能性がある。」
「俺達の目の前には、でっけぇ道が何本も広がってんだ。AiR-styleって、お前がバンド名決めた時の事、覚えてるか?」
「え?」
「覚えてんだろ?俺とトオルは、初め意味が解らなかった。でも、意味を聞いた時マジで感動したんだよ。」
「あはは。『それしか無い!!』って言ってたよね?」
「そうだよ。ジャンルを決めて、わざわざ道を狭くする必要は無いんだよ。俺達は、好きにやろうぜ?」
「ああ。」
「それじゃ、またな?」
「ああ。おやすみ。」
僕はもう一度だけ月を見上げてから、タオルケットを腰に掛けてベッドに横たわった。
例えば僕が水だったなら、虹に光るんだ。
ほんの少しで良い、君が笑顔になる様に。