第五十六話
「大雨の様に」
『fire starter』が終わると、次は『虹』だ。
事件は、この曲の2回目のサビの前で起こった。
スタッフルームで、頭を抱える。
会場から漏れ聞こえる歓声は、あたしの苛立ちを助長するだけ。
「凄いよ?観客の前半分と後半分が入れ替わっちゃった。」
ユミはそう言いながらスタッフルームに入って来た。
顔を上げると、タカシくんも一緒だ。
「あ…ごめんね?タカシくん。」
「いやぁ、別に大した事じゃないよ。ただ、状況が変わったから曲のオーダーをまた作り直した。」
「そっか…。」
エスタの様なインディーズロックバンドが、アイドルの後で演奏する苦労を、あたしは想像しか出来ない。
「今、レコードの知り合いに電話して聞いた。」
山下くんがスタッフルームに顔を出す。
「どうしたの?」
ユミ。
「あぁ、どうやらBERRYレコードは本気でエスタを潰しに掛かってる。何故インディーズのバンドを気に掛けるのかは解らないけど、恐らくはエスタの急成長に危機を感じたのかも知れない。HEVENS
SEVENのこの後の予定なんて、恐らく無いだろう。」
あたしは壁を見つめて舌打ちした。
「直前で順番を変える事でエスタのテンションを落とさせ、HEVENS SEVENのステージで、その後エスタがやり難い様な状況にする。間接的な事に聞こえるかも知れないけど、これは結構効果的だと思う。」
山下くんは眉根を寄せた。
「ねぇ、タカシくん…前々から言おうと思ってた事なんだけど…」
タカシくんは少しだけ目を大きくする。
「あなた達さ、ウチに来ない?」
「…どう言う事?」
「WaterLight Labelに移籍しないかって事。」
ユミが補足する。
「僕等のレーベルに入る事で、同系列のBERRYはエスタに手を出せなくなる筈だ。」
山下くんが言う。
タカシくんは笑った。
「俺等はただ自由に出来れば良いんだ。好きな音楽を作って、好きなステージを楽しむ。それが出来れば何処でやったって構わない。」
「じゃあ…。」
ユミの言葉を、タカシくんが遮る。
「でも、ハイスピンには良くしてもらってるし、簡単に抜ける事は出来ないよ。」
その笑みには、変え難い確かな意思があった。
「そっか…。」
あたしは呟いて、
「ごめんね?ステージの前にする話じゃなかったな…。とにかく、トリなんだから、しっかりお願いね?楽しみにしてる。」
「ああ。」
タカシくんの代わりに、アキが返事をした。
「アキ…!」
あたしは思わず立ち上がった。
「オーダーは出来てんの?」
後からトオルくんが顔を出した。
「ああ。さっき急いで作り直した。」
タカシくんが言うと、
「…なんか、懐かしいな…このメンバー。」
アキは言った。
あたしは涙を流して、頷いた。
嫌な感触が太腿を流れる。
あたしは黙ってトイレに立った。
あたしがオムツを交換し、暫くしてHEVENS SEVENのステージが終わった。
汗と雨に塗れた色男達と鉢合わせる。
一瞬、緊迫した空気が流れる。
あたしは少し上を向いて言った。
「どうせこの後仕事なんて無いんでしょう?エスタのステージ見て帰ったら?」
「ヘヴンは忙しいので、失礼します。」
マネージャーはそう言うと、HEVENS SEVENのメンバーと共にあたしをすり抜けて行く。
「怖いの?」
あたしは振り向きもせず言った。
あたしの背後で動作音がする。きっとあたしの方を振り返っているんだろう。
あたしは続けた。
「一介のインディーズバンドが、自分達より良いステージをする何て、怖くて見れないんでしょう?」
HEVENS SEVENの一人が鼻で笑う。
「興味無いね。」
「まぁ、見ても見なくても、あなた達は聞く事になるでしょうね…今日のエスタのステージの事を。」
「どう言う…」
「それじゃ。」
あたしは遮って、舞台袖に向かった。
歩きながらインカムに声を流す。
「全員、準備は良い?」
色んな人間の返事が帰って来た。
通路ではあたしに微笑みかけるスタッフ。
「エスタがゲストだとか、他のレーベルだからだとかそんな事は関係無い。FRESH SUMMER BERRYのプライドを見せて?全ては自分達の為、観客の為、それと、少しだけあたしの為に…」
舞台袖に到着する。
AiR-styleの三人はあたしを笑顔で見つめる。
耳にはイヤホンがついている。
全部聞いてたの?
あたしは少し力を抜いて笑った。
「最高のステージを見せて!!」
「おうっ!!」
エスタはそう言ってあたしに背を向けた。
ディスプレイにはAiR-styleのロゴが大きく掲げられる。
観客は大きな歓声を上げた。
雨は溢れる。大粒の雨が降り注ぐ。
タカシくんとアキは観客に背を向けて立っていた。
それぞれの楽器を肩に掛け、腕はだらんと垂らしたまま。
突然、トオルくんがドラムソロを始める。
全員の鼓動を吊り上げて行く様な速度で、打ち鳴らす。
観客の後ろ半分は大きな掛け声を投げている。
前半分は、興味無さそうに見ている。
後ろの観客が、どんどん前に流れて来る。
トオルくんのドラムは、前触れも無く突然止まった。
するとタカシくんが背を向けたまま、ギターソロを始める。
タカシくんが前を向くと、皆の歓声は一際大きくなった。
最後に一つ、耳に響く高音を鳴らし、タカシくんのソロは終わった。
観客の目はアキに降り注ぐ。
この、大雨の様に。
アキは黙ったまま前を向いた。
ゆっくりとステージの前方に歩み寄る。
自然と、アキコール。
アキは少しだけベースのヘッドを持ち上げると、一気に掻き鳴らした。
リハでは聞いた事の無い尖った音。
アキの指はその速さと、降りしきる雨で残像しか見えない。
アキのベースソロは鳴り止まない。
終わる事の無い雨の様に。
自分がこの場に居るんだと、叫ぶ様に。
トオルくんはアキに合わせて叩き始めた。
タカシくんも思いギターサウンドを乗せる。
ラウドな感情は、次第に形作られて行き、弾けた。
ベースとギターは示し合わせた様に同時に止まり、
同じ様に、トオルくんはシンバルとスネアを同時に叩き始めた。
アキは2,3度軽く跳び、流れる様なベースラインを乗せた。
『IDENTITY』だ…。
その速度は、前に誰が演奏していたかなんて忘れさせる。連れ去る。
前にいる客は驚いて口を開けたままだ。
なんて痛快!!
曲が終わっても演奏は終わらない。
そのまま、鳥肌が立つ程のタイミングで『シンパシー』に移る。
『シンパシー』の次は『エース』、『circle』と続く。
まさか…。
あたしは舞台袖で口を押さえた。
雨が吹き込んで来る。濡れているのは雨の所為?それとも…ううん。両方だ。
「あいつ等、MC入れないつもりだな。」
ショータくんが言う。
「やっぱり?」
あたしは振り向いた。
「勢いだけで全部持ってく気だ。」
「そんな事、出来るの?」
ショータくんは首を振った。
「俺には出来ないなぁ。そんなスタミナ、無いよ。」
視線をエスタに戻す。
雨とは違う、明らかに汗を掻いている。
しかし観客の盛り上がりは最高潮。エスタのテンションも振り切れてる。
止まらない。もう、止まらない。
『fire starter』が終わると、次は『虹』のイントロが始まった。
いつもは寂しげなサウンドも、今日は熱を持って激しく唸る。
アキのシャウトが、そうさせるのだ。
今となっては、観客の3分の2以上が拳を突き上げ、AiR-styleのプレイに夢中になっている。
頑固なヘヴンファンは、エスタの速度に置いて行かれたのか。
そう思った瞬間の事だった。
『虹』は曲の中でクライマックスを向かえる所だった。
一瞬、目の前が薄紫に光った。
まるで、『SUGAR SONG』のジャケットの様な色。
甘い、甘い色。
音が届いたのはその、ほんの一瞬後だった。
ステージ中央に『何か』が落ちるが、その音すら掻き消えた。
雷鳴はサンパークを包んだ。ステージの中央から煙が立ち昇る。
女の子の悲鳴があちこちで飛び交った。
「何があったの!?」
あたしはインカムに叫んだ。
「雷が照明に落ちました!!機材の殆どがダウンしています!!」
何て事…!!
あたしはエスタの身を心配した。
ステージの中央から小さな炎が上がる。
ステージに落ちた照明は、黒く煙を上げていた。
誰かの足が、小さな炎の一つを踏み付けた。
煙で見えない。
会場中が息を呑む。
今ステージの上にいるのは、あの三人だけなのだ。
風が吹く。
煙は流され、姿を現したのはアキだった。
その姿を見て、あたしの目からは一気に涙が溢れ出した。
観客達は目を見開く。
その場に腰を落とす。生暖かい感触は、下半身に広がって行った。
「アキ…!!」
アキは歌っていた。
音を拾わないマイクを鷲掴みにして、煙の上がる照明を踏み台にして、叫んでいた。
微かに聞こえるアキの歌声が、しなやかに、会場に届いた。
アキは会場にジェスチャーを送る。
一緒に歌おう、と。
会場は一度だけ、今日一番の歓声を上げた後、アキと共に『虹』のサビを繰り返し歌った。
何度も、何度も。
あたしの涙は止まらなかった。
午後から振り出した、予報外れの大雨の様に…。