第五十七話

「スコール」

嘘みたいに晴れた8月の最後の月曜。
FRESH SUMMER BERRYの熱気は、まだもう少し、僕の中で仄かに残っている。
夏の仕事はもう終わり。
僕はこの日、シンジさんの経営する『スマイリィ楽器』に来ていた。

「どうだった?」
「うーん…変わった所は特に見当たらねぇけどなぁ。」
「本当に?故障とかは無いの?」
「何か思い当たる事があるのか?この前急に来て『見てくれ』なんて言ってたけど。」
「うーん…。」
僕は少し考えた。あの現象を、どうやって伝えよう…。
ライブ中に突然やってくる、あの感覚。
まるで時雨に身体を動かされている様な、物凄く速く指が動く時間。
FRESH SUMMER BERRYでも体験した。
考えても仕方ないので、僕はありのままに言った。

「成程ねぇ…。」
シンジさんは髭をさすった。
首から下がるシルバーストーンが揺れる。
「でも故障は無かったんでしょ?」
僕が言うと、
「いやぁ、俺が言ったのは『変わった所が無かった』ってだけだ。」
シンジさんは笑う。
「どう言う事?」
「情けない話だけどな、正直『時雨』の構造を、俺は半分しか理解しちゃいない。」
「半分?」
「ああ。お前には言わなかったけどな。出力に関しては、フロントピックアップだけだ。」
「フロントって…。」
「ああ、お前が『パワーが欲しい』と言って、俺が後からつけたものだ。つまり、自分の仕事しか理解出来ていないって訳だ。」
「そんな…。」
「俺も一応は長くメンテナンスをやってるけどな、このベースのシステムが良くわかんねぇんだ。」
「そんな事ってあるの?」
「いや…今までは無かった。このベースのシステムはな、楽器じゃねぇんだよ。楽器の形はしてるけど、中身は全く違うメカニズムになってる。こんな機会は見た事ねぇよ。楽器としての理屈が通ってない。これで音が鳴るのが信じられないな。」
僕は改めて時雨を見た…父の顔が目に浮かぶ。
「まぁ一応、俺も技術者の端くれだからな。意地はある。時雨を徹底的に調べて見たけど、それでも解らなかった。解った事と言えば、『スイッチ』かな?」
「スイッチ?」
シンジさんが頷く。シルバーストーンは一度だけ弧を描いた。
「お前に解り易い様に説明するけど、中の隠れた所にスイッチと言うか、分岐点があるんだよ。普段は低音域の方に電流が流れてるとするだろ?それが、何かの拍子に別の方に電流が流れるんだ。」
「別の方って…。」
「中音域だ。お前の言う、尖った音だな。ハムバッカー・ピックアップから飛び切りの尖った音が出るんだ。」
「それは、何で?何のタイミングでそうなるの?」
「それがわかんねぇんだよ。だけど、恐らくはランダムだな。誰にも予測はつかない。」
「予測がつかない…。」
僕は今までのライブを思い出した。
「そう、これは俺の勝手な思い込みだが、『時雨』って言う名前はそこから付いたんじゃねぇかな?」
「時雨…通り雨か…。」
「そう言う事だ。」
僕は首を傾げた。
「でも、指が速く動くのは?」
「ああ、それな。簡単な事だよ。」

シンジさんは立ち上がると、一本のベースを持って来た。
ミュージックマンの『スティングレイ』だ。
指弾きのロックベーシストが好む、丸みを帯びたボディが印象的なベースで、
歪んだ、個性的な音もまた、印象深かった。
簡単に言えば『癖のあるベース』で、僕は好みではなかった。
攻撃的過ぎるのだ。
スティングレイにイコライザーを二つ繋ぐ。
「二つも?」
イコライザーとは、『周波数域』を調節する機械だ。
簡単に言えば、低、中、高の音域を選択するのだ。
セッティングを終えたシンジさんは僕にスティングレイを渡した。
「弾いてみな?」
僕は適当に弦を弾く。
予想外の柔らかな低音に驚いた。
「それが、普段の時雨の音だと思え。」
僕は頷く。
「もっと速いラインを弾いてみな?」
言われた通りにする。
30秒くらい、ベースを弾いていると、急にシンジさんがフットスイッチを踏んだ。
二つのイコライザーを同時に。
途端に、スティングレイ独特の、いや、それ以上の尖った音がなり出した。
自然と指の動きが速くなる。
『あの時』の感覚に似ている…。
僕はシンジさんの方を向いた。
「解ったか?」

僕が悩んでいると、
「つまりだな、この二つのイコライザーは、低音と高音を極端に上げた物と、逆に中音だけを上げた物の二つだ。ちなみにアンプの方のセッティングはフラットにしてある。スティングレイは元々尖った音を出すから、イコライザーを通して無理矢理低音重視にしても味気ないが、切り替えた時のギャップはわかっただろう?」
僕はまた頷いた。
「最初は低音重視のイコライザーを通してたけど、二つ同時に切り替えて、低音の方をOFFにしたと同時に中音の方をONにしたんだ。解るか?」
「はあ…。」
難しい話になって来た。
「まぁこのシステムはわかんなくて良いや。俺が言いたいのは、時雨のあの状態を俺が無理矢理作ったって事だ。」
成程。

シンジさんは続ける。
「楽器の音ってのは、演奏者の気持ちにかなり影響を与える。お前なら解るだろ?」
「そうか…低音重視の音で引いてると、ネックが柔らかい感じがして、指が流れる様な気がする。中音重視の音の場合は、ネックが硬い感じで、弦に指を弾かれる様な感じだ…。」
「そう言う事だ。『音が硬い』って言うのは、即ちネックに通じる。精神論だけどな。多くの演奏者のポテンシャルは音に左右される。いつも通りの低音で弾いてる時は、お前のテンションがどんなに高くても、どこか落ち着いているんだ。だが急に中音が上がり、低音が下がると、お前は無意識に焦る。時雨に急かされてる様な感覚になるんだ。」
「だからあんな指使いが…。」
シンジさんは頷いた。
「でも、そんな簡単な事でこんなに変わる物なの…?」
僕が首を傾げると、
「お前は無意識に周りの音響を気にする癖があるだろ。だから余計にだと思うぜ?」
シンジさんは煙草に火を点けた。
「そうかぁ…。ねぇ、この時雨のタイミング、コントロール出来ない?」
僕が言うと、シンジさんは首を振った。
「俺には出来ないし、作った奴にも出来るかどうか…それに、時雨はそれで良いんだよ。」
「え?」
「時雨の作り出す状況って言うのは、突然来る『スコール』みたいな物だと思うんだ。」
「スコール…。」
「それが時雨の良さだと、俺は思ってる。」
「成程…。」


その後、僕はスマイリィ楽器でシンジさんと色んな話で盛り上がった。
ユカから電話が入って、僕は店を出る。


「待ったぁ?」
僕は首を振って、
「そんなに。」
と言った。
「普通『全然』って言わない?」
ユカは頬を膨らました。
「はいはい。」
「アキぃ、お前幾つんなったんだっけ?」
ユカは笑って言う。
「23。同い年だろ?」
僕は苦笑い。
いつものやり取り。ユカにとっては挨拶なのだ。
僕等は歩き出した。
「また髪型変えたんだ。」
僕が言うとユカは僕を振り向いて
「うん。どう?」
と聞いた。
「カッコ良いよ。」
ユカの髪は、前髪の中半分が金髪で、右側の前髪だけ少し長かった。
「可愛いとか、綺麗とか言えないの?」
「言って欲しいの?」
首を振って、
「アキ、何読んだ?」
ユカは僕の顔を覗き込んだ。
「『春秋左子伝』かな。」

ユカの課題。
それは嫌いな事を学べ、と言う物だった。
僕の場合は中国史を学んでいた。

「成程ね。」
ユカは顎に手を置く。
「趙盾(チョウジュン)の、秦軍の意表を突く奇襲を行う前夜の言葉。」
「えーと、『人に先立ち,人の心を奪うことあるは,軍の善謀なり』です。」
「上出来。」
ユカは満足気に笑った。
「どこ行く?」
僕が言うと、
「クンクルに新しいカフェが出来たんだって。そこに行こうか。」
ユカは無邪気に言った。
僕は頷いて、二人でそこに向かった。

クンクルは、緑区から電車で2駅先にある、ショッピングモールだった。
僕等はこの夏出来たばかりのカフェに入ると、ケーキセットを注文した。

「別々の頼んで、半分こしよ?」
ユカの言葉に吹き出した。
「何?」
少しムッとした顔でユカは言う。
「何か可愛いよ?女っぽい。」
言うと、メニューの角で叩かれた。

ケーキを食べながら取り留めの無い話を続けている内に、アヤの話題になった。
「あんた結局どうすんの?」
ユカは珈琲カップに口を付けた。
「どうするも何も、僕等はもうやり直せないよ。」
僕は苦笑いした。
「あんたはそれで良いの?納得してんの?」
ユカの言葉に、1秒だけ目を閉じた。
フォークを置いてユカを見る。
「むらっちゃん、僕はもうアヤを傷付けたくない。僕に出来る事は、FSBを成功させる事だった。それももう終わって、僕等は別々に進み出した。もう、僕等は過去に縛られてちゃいけないんだ。アヤならきっと、直ぐに立ち直れるって信じてる。」
「もう、決めたの?」
僕は静かに頷いた。

「アヤを忘れるなんて出来ないけど、僕はとにかく前に進むんだ。アヤも、そうする筈だから。」
ユカは納得した様な笑顔を見せ、ケーキを一口食べた。
「美味しいね、ここのケーキ。」
「そうだね。」
「アキの、もう少しちょうだい?」
「だーめ。」
「ケチ。」
「じゃあむらっちゃんのももう少しくれる?」
「嫌。」
「ケチ。」
「バーカ。」
「うるせー。」
「ベビーフェイス。」
「それって悪口?」
「何?嬉しいの?」
「別に。」
「ね、一口だけ。」
「仕方ないなぁ。」


人生は、予測がつかないんだ。
いつ、どんなタイミングで変化が生まれるかわからない。
それはランダムなんだ。
そう、まるで突然にやって来るスコールの様に。
予測出来ないから、人生って言うのはこんなにスリリングで、
こんなに甘いんだ。