第六十二話
「揺レル」
発売された『IDENTITY』を聴いて、あたし達は愕然とした。
様々な機会の音で入り組んでいて、豪華な印象はあるが、
まるでパワーが無い。
shinの3人にとっても特別な曲だっただけに、
彼等の悲愴は見ていられなかった。
「俺さ、『デビューしたきっかけは?』って聞かれたら、絶対『AiR-styleが『IDENTITY』を教えてくれたからだ』って答えるつもりだったんだけどな…。」
ユウスケは自嘲気味に言った。
11月の末に、TVにAiR-styleが出演した。
有名なTV番組、『Music House』だ。
番組を観て、泣きそうになった。
其処に映っていたのは、夢に向かって全身で走っていた彼等では無く、
夢の世界に呑まれて、成す術を失った機械人形の様だった。
張り付いた様な笑顔、用意された答え。演技の様なステージ。
あたしは、耐えられなかった。
全てが嘘に見えて、全てが、壊れていた。
ユミの話を聞くと、彼等も苦労しているらしい。
メジャーレーベルとの折り合いもあるのだろう。
方針や考え、信念のベクトルが違っても、そこには契約という大きな鎖がある。
アキとの連絡は未だに取っていない。
メグは育児に忙しいだろうから、連絡は取り辛い。
仕事上での、最低限の連絡しか取っていない。
そうすると、AiR-styleに関する情報源は、自然とユミだけになる。
ユウスケがあたしの髪に触れる。
あたしはぼんやりと部屋の隅を見ていた。
12月に入ってもずっと仕事をしていたが、半ばになって少し休暇を取った。
FRESH SUMMER BERRYの準備からずっと働き詰めだったあたしに、
山下くんが気を利かせてくれたのだった。
来月…年が開けると直ぐに、来年のフェスに向けて準備が始まる。
FRESH SUMMER BERRYのpart2だ。
そうなると休みたくても休めない日が続くだろう。
あたしは突然現れた空白の5日間を、どう埋めようか考えていた。
世界中がクリスマスに向けて浮き足立っている雰囲気の中、
日輪町も例外では無かった。
カップルが多いのは、クリスマスだから特別という訳ではなく、
ただ、あたしが意識しているだけだ。
普段なら気にならないカップルが、最近やたら気になるのは、
あたしの心が、この季節の空気と同じで、ひんやり冷たく、乾いている所為だ。
休暇の半分は、自宅で過ごした。
特にする事も無かったので、無理矢理映画のビデオを借りてみたり、
部屋の大掃除をしてみたり…。
5連休の3日目が、あと4時間で終わろうとしていた。
ユウスケがあたしの部屋を訪ねて来たのは、その頃だった。
部屋に響くチャイムの音に驚き、ドアに駆け寄ると、
「俺だけど。」
shinのギタリストの声がした。
「あら、珍しいね。いらっしゃい。どうしたの?」
孤独な3日間を過ごしたあたしは、突然の来客を歓迎した。
ユウスケがこの部屋に来るのは2度目。
1度目はshinのCDが発売された打ち上げの日だった。
shinのメンバー、ユミ、シズカ、マナ、山下くんを招いて、
ちょっとした祝賀会をやったのだった。
あの頃は、まだ暑かったな。
あたしの部屋は家賃の割に広く、たまにそうやって集まる事がある。
shinと水神はFSBが終わると直ぐに、FUNK ODD SMITHは秋前にCDを出した。
レコ発ツアーも順調に終わり、今は次のアルバムの製作をしている。
3つのバンドはじわじわと世間に認知されて行った。
世間と言っても、アンダーグラウンドでの話だが。
特にshinはWaterLight Labelで一番の人気だ。
「今日はお一人?」
あたしが笑うと、
「きっと暇を持て余してると思ってさ。」
4つ年下のユウスケは、生意気に言った。
「別にぃ?充実した休暇だけど?」
あたしが強がると、
「はいはい。酒買って来たから飲もうよ。」
と笑った。
テーブルの上に並んだ様々なアルコール。
「こんなに買って来たの?」
あたしの言葉に、ユウスケは悪戯な笑顔で答えた。
蛍光灯の光に、栗色の髪が赤みを強める。
乾杯して、音楽を聴きながら色んな事を話した。
「あんた等にはマジ感謝してるわ。」
あたしが言うと、
「いやいや、俺等の方が感謝してるよ。」
ユウスケの頬は既に赤い。
あたしは3本目の缶ビールのプルに手を掛けた。
ぷしゅっ。
「エスタは苦労してるみたいだなぁ。」
ふと、ユウスケが言った。
「ま、ね…。メジャーはしんどいらしいね。」
「今のエスタ見てたら、メジャーに行きたいとは思えないな。」
「てか、行かれたらウチが困るし。」
ユウスケが笑う。
「確かにね。」
「まぁ、メジャーのレーベルって言っても色んな所があるよ。Fineはちょっとビジネス的だからね。」
「気になる?」
「え?」
「アキさんの事。」
「あー、ま、そりゃね。多少は。」
あたしは少し多めにビールを口に含んだ。
「多少、ねぇ。」
「何ー?あたしをからかいに来たの?」
あたしが言うと、
「いやいや、もう直ぐクリスマスだしね。きっと一人で寂しい夜を過ごしてるんじゃないかなって思って。ま、ボランティアの精神だよ。」
ユウスケは笑った。
「この野郎…。」
あたしはユウスケを睨んだ。
「怖い怖い。」
ユウスケは苦笑い。
「…まぁ、勘違いにすれ違い。結局バタバタしただけだったな。」
あたしは遠くを見る様な眼差しで言った。
「まだ、好きなんだ。」
「うーん…好き…なのかなぁ?最近解んなくなって来たよ。」
「別れてから結構経つんでしょ?」
「1年半。」
「成程ね。」
「まぁでも、他の人と付き合うって言う気持ちは無いかなぁ?」
「へぇ、そうなんだ。」
「アキの事を諦めてない、って訳じゃないんだけど、ただね、ユカにも言ったんだけど…」
あたしはそこで一度言葉を切った。
アキと付き合っていた頃の思い出が頭の中を駆け巡る。
「アキ以外の人の愛し方なんて、もう解らないな。」
あたしはそう言うと、缶ビールに口を付けた。
唇だけ濡らすと、ユウスケが言った。
「でも、一人じゃ辛いんじゃない?他の人を愛す事は出来なくても、愛されてみるとかさ。」
「いやいや、『愛されるより愛したい』じゃん?」
あたしが笑うと、ユウスケは苦笑いで凄く短い溜め息をついた。
鼻で笑ったのかも知れない。あたしは缶ビールをテーブルに置いた。
「何〜?あ、もしかして口説いてる?あたしの事好きとか?」
あたしが笑うと、
「うん。」
ユウスケはとても低い声で言った。
「え…?」
ユウスケの言葉は直ぐに理解出来た、けれどあたしの心は準備が出来ていなかった。
ユウスケはレーベルのバンドのメンバーで、恋愛対象と言うよりも寧ろ弟と言う感覚でしか見ていなかった。
「俺は、アヤさんが好きだ。」
ユウスケははっきりと言った。
真っ直ぐにあたしを見て。
「な、何言ってんの…」
「好きなんだ。」
あたしが笑おうとすると、ユウスケは真剣な声で遮った。
じゅわ…。
「ぃゃ…。」
あたしは小さな声を漏らした。
股間が生暖かく染まるのが解る。
気持ちを激しく揺さ振られると、失禁してしまうと言う体質は、
あの夜から変わっていなかった。
「アヤさん…っ!?」
「来ないで!!!」
立ち上がろうとしたユウスケの動きが止まり、あたしは股間を押さえて俯いた。
家に居るから、こんな事無いと思ったのが甘かった。
家に居る時は、オムツをしていなかった。
缶ビールをテーブルに置くんじゃなかった。
わざと零したらごまかせたかも知れないのに。
次第に笑いが込み上げて来た。
肩を震わせて喉の奥で笑う。
「驚いたり、戸惑ったり…」
あたしは口を開いた。酷く口の中が乾く。
「気持ちを揺さ振られるとね…漏らしちゃうんだ…。バカみたいでしょ?」
あたしは自分を笑った。
「こんな女、やめとけば?直ぐにおしっこ漏らすし、大人ぶってる癖に自分の気持ちも身体もコントロール出来ない様な女。」
涙が、流れた。
「アヤさん…。」
「もう、帰ってくれる?ほら、パンツとかズボン変えなくちゃなんないしさ、濡れちゃった。ね?こんな汚い女、ユウスケも嫌でしょ?」
「そんな事…」
「帰ってよ!!!どうせあたしは汚い女なんだ!!解ってるよ!!こんな女誰も好きにならない!!あんたにあたしの気持ちが解る!?自分の意思とは関係なく人前で勝手に排泄してしまう女の気持ちが!!!子供でも年寄りでも無いのに毎日オムツ穿かなきゃなんないあたしの気持ちが解る!?」
俯いて、必死で目を閉じて叫んだ。あたし、何言ってんだろう…?
「泣きたい時に、涙より先におしっこが出るんだよ!?もうヤダこんな身体!!ミネラルウォーターだけじゃなくて、どんな飲み物も呑むのが怖いの!!飲んだら全部おしっこに変わる気がして…なのに調子に乗ってお酒いっぱい飲んで…もう最低!!自分の家だからって油断して結局漏らして!!あたしなんて…」
でたらめに、頭の中に出る言葉を全部吐き出していると、ユウスケが突然あたしを抱き締めた。
「ユウスケ…?」
ユウスケは何も言わない。
「ちょっと…。」
あたしはユウスケの肩を押して、身体を離そうとした。
しかしユウスケの力は強く、びくともしない。
「ね…汚いよ…?」
力の無い声で言う。
「汚くない。」
「濡れるって…。」
「いい。」
「ちょっと…」
「好きだって言ったろ?」
「でも…。」
「関係無い。全部関係無い。俺はアヤさんが好きなんだ。アヤさんの全部。」
「っ…。」
言葉を失った。
力が抜け、腕はだらんと床に落ちた。
ユウスケの肩越しに月が見えた。
冬の澄んだ空気に、くっきりと浮かぶ衛星。
下半身が、次第に冷たくなって来た…。