第六十五話

「クビ」

ユカの唇の動きはとても緩やかで、蛍光灯の光に反射して
宝石の様に輝いていた。
僕は10センチにも満たない距離で、それに見とれていた。

「アキ…ダメだよ。あたしはアキが好きだけど、一緒に居たいけど…ダメだよ。」
ユカは屈託の無い明るい笑顔を見せた。
それが逆に、悲しく見えた。
「アヤに言ったんだ…アキは、あたしにとって弟みたいな存在。あたしもアヤも、それで納得してた。だから…ね?あたしの気持ちを揺さ振らないで?」
ユカの目に、次第に涙が溜まって行った。
凄く、いけない事を言ったんだと思った。

「ごめん…どうかしてた。」
「ううん。あたしは大丈夫だから。」
ユカはもう一度笑って見せた。
細めた目から、涙が一粒流れ出た。
ユカは、直ぐにその涙を拭って、
「ごめん…。」
と小さな声で言った。

僕はまた天井を見上げ、
「もう…疲れたよ…。アヤを好きでいる事も、擦れ違う事も。」
と呟いた。
ユカもまた身体を反転し、ベッドに背をもたれた。
「なぁに?疲れたからあたしで手を打とうとした訳?」
「いやっ、そう言う訳じゃなくて…。」
僕が焦って弁解しようとすると、ユカは笑った。
「解ってる。」

少しの間、沈黙が続いた。
僕はタバコを咥えた。

カチン。

ジッポライターを開ける音が部屋に響いた。

シュボッ。

天井へ向かい、煙が立ち昇る。
「呑もっか!!」
突然ユカが言った。
「そうだな。」
僕等は笑って立ち上がった。

二人でコンビにまで歩き、思い思いのアルコールや食べ物を買い、
ビニール袋を提げて部屋まで戻る。
その間、僕等は一言も言葉を交わさなかった。

プシュッ。

缶ビールのプルを開けると、
「乾杯しよ?」
ユカが言った。
「何に?」
言うと、ユカは眉根を寄せて天井を見上げた。
「うーん…。」
悩んでいるユカに缶ビールを掲げた。
「じゃ…アヤと、ユウスケに。」
僕が言うと、ユカは驚いて
「…良いの?」
と目を丸くさせた。僕は笑って頷いた。
ユカも笑う。
「じゃ、アヤとユウスケくんに。」
僕等は鈍い音を立てて缶を合わせた。
ゴクゴクと喉を鳴らせて呑むと、ユカが先に缶を置いた。

「結局、どうするの?アヤを諦める?」
僕も缶を置く。
「僕はアヤが好きだ。この気持ちは誰にも変えられないと思うんだ。」
「さっきあたしに逃げようとしたくせに。」
ユカの言葉には苦笑いするしかなかった。
「じゃ、ユウスケからアヤを奪うの?」
ユカは目を輝かせる。僕は首を振った。
「アヤの事が好きだから、アヤには幸せになってほしい。ユウスケと一緒になってアヤが幸せになるなら、僕はそれで良いよ。僕には、アヤを幸せにする自信なんて無いし、『幸せにしてやる』なんて傲慢な事も言えない。」
「っでも!!解んないじゃん!!ユウスケとアキ、どっちがアヤを幸せに出来るか、なんて!!」
「…でも、少なくとも今は…僕と居るよりも、ユウスケと居た方がアヤも落ち着くんじゃないかな?アヤも僕も仕事があるし、距離もある。逢おうと思っても直ぐには逢えないしね。」
「距離なんて関係無いじゃん。」
そう言って頬を膨らませるユカに、僕はまた、苦笑いした。

ユカは窓際に立って、この部屋に入ってきた時の様に夜空を見上げた。
「ね、クリスマスに雪が降るって凄いね。ロマンチック〜。」
「心にも無い事を…。」
僕は呆れて言った。
「うるさいっ。でも本当に綺麗。積もるかな?」
ユカはそう言いながら、煙草に火を点けた。
「積もったら、来週からのレコーディング無くなるかな?」
僕等は笑った。

「あ、思い出した。『ホワイトクリスマス』って言うんだよね?」
「うん。そんな言葉言った事無いけど。」
ユカの吐き出す煙が、窓に当たって拡がって行く。
「ホワイトクリスマスに、男と女が狭いマンションに二人きり。シチュエイションとしては最高なんだけどねー。」
僕等は、笑った。

アヤとユウスケが付き合い始めたと聞いたのは、ちょうど1週間前。
タカシが慌てて僕に教えてくれた。
今更、僕には何も言えないし、言う権利も無い。

この夜降った雪は結局積もる事も無く、レコーディングは順調に終了した。
メジャー第二弾のシングルは、『IDENTITY』の半分も売れなかった。
この頃だったかな…。

片桐が、僕等に対して急に冷たくなったのは…。

僕等3人が呼ばれたのは、片桐の部屋。
メジャー第二弾シングル、『Good Flight』が発売されて、一週間後の事だった。
ドアプレートには、『専務』と書かれていた。
中に入ると、片桐は光沢のあるシルバーのスーツに身を包み、黒革の椅子に腰掛けていた。
大きな窓から外の街並みが足元に拡がっている。
「君達にはがっかりした。」
片桐は前触れ無くそう言った。
「インディーでちやほやされて良い気になっていたんだろうが、メジャーの厳しさが少しは身に沁みたか?」
タカシは鼻で笑った。
「あんたらが言った通りやった…と言うか、やらされた。それで結果が出なくても俺達の知った事じゃねぇよ。」
「随分無責任だな。君達が作って、君達の名前で、売り出したCDが、売れていないんだ。少しは責任を感じないか?」
「僕等の思うようにやらせてもらえませんかね…?」
僕が言うと、片桐は今度は声に出して笑った。
「君達に何が出来る?君達は私の言う通りにしていれば良い。そうすれば売れるんだ。君達にはかなり投資させてもらった。投資したからには、稼がせてもらうよ?」
「難しい話はわかんねぇんですけど。」
トオルは興味無さそうに言った。
片桐はトオルを無視して、机の上の電話を取った。
「私だ。直ぐに呼べ。」
それだけ言うと、受話器を置いた。
僕等が疑問に満ちた顔をしていても、片桐は薄笑いを浮かべるだけで何も言わなかった。

しかし直ぐに、僕等の後ろのドアがノックされた。
「入れ。」
片桐の言葉の後に、ドアはゆっくりと開いた。
「むらっちゃん!」
入って来たのはユカだった。
ユカは困惑した表情で部屋に入って来た。
その後からは、『チームAiR-style』のスタイリスト達が続いた。
最後に、見た事の無い女が入って来て、全員が片桐に向かって並んだ。
ユカは、僕に苦笑いした。
ユカを入れたスタイリストの4人と、知らない女が1人。

「村田君…」
片桐はユカを見ずに口を開いた。
「君はクビだ。」

「なっ!?」
僕等は驚きを隠せなかった。
「…どう言う、事ですか?」
ユカは肩を震わせた。
「言葉の通りだ。明日から君は来なくて良い。スタイリングの統括は彼女に任せる。」
最後に部屋に入って来た女が、僕等を振り返った。
「斎条 嶺美です。宜しくお願いします。」
斎条はそう言って頭を下げた。

「ふざけんなっ!!何でむらっちゃんがクビなんだよっ!!!」
タカシが叫ぶ。片桐は平然と言った。
「私は君達を立派な商品として売り出すのが仕事だ。無能な人間は切るしかないだろう?君達も売れたいなら村田君とはもう関わらない事だな。」


ドンッ!!!


部屋に居る全員が僕を振り返る。
僕は思いっきりドアを殴っていた。
「アキ…。」
タカシの声が聞こえる。
トオルの吐息が聞こえる。

僕は真っ直ぐに片桐の机まで歩いた。

「巫山戯るな…。」

自分でも、驚く程低い声だった。
「無能…?随分と勝手な言い草だな。あんたに何が解るんだ?我慢して来たけど、今日はちょっと許せないな…」
片桐は未だ細い笑みを浮かべていた。
「無能だから無能と言っただけだ。命じた事もろくに出来ない。君達には何も言う権利は無い。これは人事だ。会社の決定なんだよ。それとも…契約破棄で訴えようか?」
「なぁ、片桐さん、さっき言っただろう…?」
片桐は僕を見上げて首を傾げた。
僕は拳を固め、振り上げた。

「巫山戯んなっ!!!」

「やめてっ!!!」
振り上げた腕を、ユカが制止した。
「…むらっちゃん…。」
僕の身体から力が抜けて行く。
「あたし…辞めるからさ。元々副業だし。最近本業の美容室の方が忙しくてさ、そろそろ辞めようと思ってた所。」
弱々しい声が、胸に刺さる。
ユカの美容室の経営が上手く言ってない事は知っていた。
スタイリストとしてのユカの給料で何とか保っている事も。
「ね?大丈夫。それよりあたしの為にあんた等に迷惑掛かるから。ね?」

ユカ…。
「むらっちゃん…。」

僕は踵を返し、部屋を出た。