第六十七話
「ありがとう」
「ベストアルバムの売れ行きは好調です。」
マーシーが言った。
「ありがと。」
僕はそれだけ言うと、電話を切った。
僕は久し振りに実家に帰って来ていた。
最近休暇が多く、たまには帰って来いと言う母の言葉もあって
何年か振りの帰省となった。
携帯電話を机の上に投げ出すと、部屋の隅に立て掛けられたベースが目に入った。
実家に置いて来たブルーのフェンダー。
時雨の前に使っていたベースで、少しほこりを被っていた。
最近は、仕事以外でベースを弾く事は滅多に無くなった。
永遠に湧き出てくる水の様に、
周囲に当たり前に存在する空気の様に、
曲を作る事は僕にとって自然な動作の一つだった。
しかし、今ではビジネスと言うカテゴリに分類されている。
休みの日にまでベースを弾きたくない。
そう思う様になってしまった。
ユカがチームAiR-styleを去ってから、僕はユカと一度も連絡を取っていなかった。
臆病な僕を、田中が笑った。
田中も久し振りの帰省。
僕は無表情で田中に霧吹きをかけた。
ユカの後任でスタイリングを統括する事になった斎条嶺美。
レミのやり方には僕も、他の二人も納得行かなかった。
元々ユカを追い出して後から入って来たのだから、
好意など持てる筈も無かった。
それでも、彼女は積極的な姿勢と正論とで、僕等のスタイルを
彼女の思う方向に持って行った。
レミは事あるごとに「ロックとは、」「ロックって言うのは、」と口にした。
僕は独りの部屋で溜め息をついた。
そして、柔らかい田中の棘を撫でた。
「てっ…。」
田中の棘は、僕の指に突き刺さった。
僕は棘の刺さった指をじっと眺めた。
そしてもう一度、溜め息をついた。
タカシに電話する。
「どうした?」
タカシの声も、何処か元気が無い。
「話があるんだけど…明日、大丈夫かな?」
「あぁ、俺も今度のライブの事で話したい事があったから。」
「オーケー。トオルにも言っといてくれる?」
「ああ。」
ベストアルバムを発売して、僕等は一度だけライブをする。
緑区の大きなホールで、一度だけ。
会社側はツアーを組む予定だったらしいが、僕等がそれを断った。
売れ行きもイマイチだからか、片桐は意外にすんなりと承諾した。
僕は服を着替え、外に出た。
特に用事は無かったが、ただ、家の中に居たくなかった。
細身の黒っぽいGパンに、7分丈のラグランスリーブのTシャツ。
グレーのニット帽を被り、伊達眼鏡を掛けた。
変装、何て大層な物じゃない。
意外に簡単な格好の方がばれにくい事が最近わかった。
CDショップで色んなCDを眺めていた。
WaterLight Labelのコーナーが出来ていて、
shin、水神、F.O.SのCDが並んでいた。
今年の夏もフェスをするのか…そう思ったと同時に、僕等には関係ない、と目を背けた。
「あの…。」
背後から店員に声を掛けられた。
「AiR-styleのアキさんですよね?サインしてもらえませんか?」
店の小さなメモを渡される。
「飾りたいんで、出来ればメッセージもお願い出来ますか?」
「いや…。」
僕は断ろうとした。
そんな気分じゃなかった。
しかし、
「いーじゃん。書いてあげなよ。」
見知らぬ女が横から顔を出した。
「え?あ、はあ…。」
僕は訳も解らず、紙にサインと「ベスト宜しく」とだけ書いた。
「ありがとうございます。」
僕は苦笑いして店を出た。
女も僕について来る。
「えっと…。」
僕は立ち止まって女に話しかけようとした、
が、何を言って良いか解らない。
「あたし、周防 亜季。アキで良いよ。」
女は無条件の笑顔で言った。
「僕は、坂下 明…。」
「アキ?アンタも!?」
僕は苦笑い。
「へー。偶然だね。ってかアンタって有名な人?」
「何で?」
「サイン求められてたじゃん。歌手?」
「歌手…かなぁ?」
僕は首を傾げた。
『歌手』と言う言葉がどうもしっくり来なかった。
「あ、売れてないんだ?」
「はは…まぁね。」
僕が弱々しく笑うと、
「ま、その内売れるって、頑張れよ。」
亜季は僕の背中を叩いた。
「お互い同じ名前だとややこしいね。苗字でいっか。ね、坂下。」
「何?」
「あたし寄りたい所あるんだ。寄って行かない?」
「え?」
「良いから良いから。」
どうも僕は強引な人に弱い。
周防は僕の腕を取ってどんどん引っ張って行った。
「あたしね、最近インディーズの音楽にはまったんだ。あんたインディーズ?」
僕は首を振った。
「え?じゃあメジャーなの?」
「一応ね。」
「へぇ〜。いやぁ、友達に教えてもらって音楽に興味持ち始めたから、あんまり有名なアーティストって知らないんだよね。」
アーティスト…これもしっくり来ない。
「どんな音楽聴くの?」
何気無く聞くと、
「えっとね、入り口は『水神』だったな。『水神』知ってる?」
僕は驚いて、苦笑いした。
「どっち?」
「知ってるよ。」
「あとはshinってバンド。」
そう言って、僕を見る。
「知ってる。」
「へぇ。あんた結構知ってるんだね。」
「まぁね。てか、腕…。」
僕と周防は腕を組む様にして歩いていた。
カップルみたいだ。
「え?まぁいいじゃん。カップルみたいで。あ、彼女いるの?」
「いや、いないけど…。」
「じゃ、オッケー。」
周防はまた話し始めた。
「でもね、最近凄くハマってるのはね、『AiR-style』だな!!」
「えっ?」
「エスタ。知らないの?結構有名なんでしょ?」
「いや…知ってる…。」
「あのね、エスタって最近は全然ダメなんだけど、昔のCD聴いたら凄く良かった。」
僕は心の奥が少し痛んだ。
横断歩道は赤、僕等は足を止めた。
周防は続ける。
「なんかね、エスタの曲って聴いても全然興味湧かなかったんだけど、友達が昔のCD持ってて、それ貸してもらったらマジでカッコ良かったよ。何で最近はあんな風になったんだろ?」
「色々あるんだよ…。」
僕が言うと、
「あ、さすが音楽業界の事解ってるね。」
周防は笑った。
「ね、坂下はバンドやってるの?それとも一人?」
「バンドだよ。」
「へぇ、何てバンド?あ、青だよ。」
僕は何て言おうか迷っていた。
今更エスタのメンバーなんて言えない。
「ねぇ、何てバンドなの?」
僕は思わず口を開いた。
「…アヤ…。」
「アヤ?聞いた事無いなぁ。変な名前。」
横断歩道の反対側から、アヤとユウスケが歩いて来た。
「ね、楽器は何やってんの?」
僕は周防の言葉が耳に入らなかった。
真っ直ぐ、歩く。
アヤも僕に気付いた様だった。
しかし、お互いに目を合わせず、しかし、距離は次第に縮まっていく。
「ねぇ、楽器。」
僕とアヤの距離はどんどん、どんどん近くなる。
そして、遂には擦れ違った。
僕は息をついた。
Tシャツの下で変な汗を掻いていた。
「ちょっと、どうしたの?」
周防が僕の顔を覗き込む。
信号を渡り切ると、僕は立ち止まった。
「ベース…」
「え?」
「僕のパートはベースだよ。」
そう言うと、周防は良いね、と言い、再び歩き出した。
周防はアクセサリーショップに僕を連れて行き、
暫く店内を散策していた。
「良いのあった?」
僕が聞くと、周防はエスニックアクセサリーを手に取り、
「これに決めた。」
と言って直ぐにレジに向かった。
「ありがと。付き合ってくれて。」
僕が首を振ると、
「坂下、売れると良いね。」
周防はそう笑った。
「…ありがとう。」
僕はそう言ったが、売れて良い事なんて、何も無かった。
周防はそのまま手を振って日輪町の街並みに消えて行った。
僕は踵を返して実家に向かった。
「おかえり。何処行ってたの?」
母は優しく言った。
「別に。フラフラしてた。」
言うと、
「ったく、いつになっても変わらないね。」
母は呆れた顔で言った。
いつになっても変わらない。
本当にそう?
「本当にそう?」
母に問うと、少し疑問を浮かべて、
「そうだね…アキはずっと変わらないよ。この家に居た頃からずっと。」
母は優しく、そう言って笑った。
ありがとう。
その日の夕方の便で緑区に戻った。
緑区のアパートに付いた頃には、空はすっかり暗かったが、
街の灯りは消える事無く空を灰色に照らしていた。
僕は少し疲れて、シャワーを浴びると直ぐに眠りに落ちた。
次の日、空は快晴。
僕とタカシとトオルの三人は、喫茶店で話し合っていた。
三人の顔に笑顔なんて無かった。
こんな日が来るなんて、思いもしなかったんだ。
タカシは珈琲カップを持ち上げ、ずっと中を覗いていた。
トオルは何度もお絞りで手を拭いた。
僕は、何本も煙草を吸った。
「みんな…これで良い?」
僕が言うと、タカシとトオルは力無く頷いた。
僕は小さな溜め息をついて、珈琲を一口飲んだ。
僕はジッポライターに火を点け、テーブルの中央に置いた。
「みんな、本当に楽しかった。ありがとう。」
僕が言うと、タカシは煙草を取り出して言った。
「ずっと、友達って事には変わり無いよな。ありがとな。」
トオルが僕に手を差し伸べる。
僕は自分の煙草を一本、トオルに手渡した。
「俺等って、ちょっとカッコ良かったよな?ありがとう。」
その言葉に、三人は少しだけ笑ったんだ。
テーブルの中央に三人で顔を近付けた。
口には煙草を咥えて。
三本の煙草の先端が炎に焼かれる。
僕等は一斉に煙を吐き出し、涙を流した。
ありがとう、AiR-style。
カチンッ。
ジッポの蓋を閉める音が、妙に哀しく聴こえた。