第七十三話

「分岐」

ふとした瞬間に、あの日の事を思い出しては、身震いする。
きっと今までの人生で最高の時間だった筈だ。

エスタ最後のライブが終わった後、あたしは違和感を感じた。
あれ程の感動の中、あたしは一滴のおしっこも漏らさなかった。
勿論、それが正常なのだが、あたしはあの夜以来、
そう、アキと、アキのファンがキスしているのを目撃した夜以来、
驚いたり、感動したりと、心を動かされると失禁してしまう体質になってしまっていた。
精神科の医師の話では、ストレスや不安が重なり、
体内での許容を超えたマイナス要素が、失禁と言う形で体外に逃げ出すらしい。
つまり、あたしのおしっこはストレスや不安の塊って事?

あのライブで失禁しなかった理由は解らないが、あたしは嬉しかった。
心を揺さ振られても失禁しなかった事は勿論の事、
何より、オムツを替える為にトイレに行く必要が無かった事だ。
あのライブは、一瞬でさえも目を離したくなかった。

カーテンの隙間から外の夜を見た。
雨は、あたしが緑区から帰って来た昨日の夕方から降り続いている。
窓の雫で滲んだネオンの明かりが、寂しくて綺麗。

打ち上げには行かなかった。
ライブの興奮が落ち着いて来ると、今まで体験した事も無い様な疲労感に襲われたからだ。
正直な話、打ち上げには行きたかった。
ライブが始まる前は、アキに逢うのが気まずかったのだが、
ライブが終わった後は、AiR-styleに逢いたかった。
アキに対する恋愛感情なんて関係無く、
あの『業績』を残した『偉人』達に、とても逢いたくなった。

しかし、頭がボーっとして、足元がふらついた。
あまりの疲労感、身体は熱を保ったまま。顔が膨張している様な気がした。
医者の言う事が正しいなら、きっとあたしの中に、体外に排出されなかった
マイナス要素が沢山蓄積されているに違いない。

あたしは一人、ホテルに戻った。
あたしを心配したユウスケは、一緒に行くと言っていたが、断った。
「アンタもエスタと逢いたいでしょ?あたしがアンタの立場なら、絶対逢いたい。」
今思い返しても、卑怯な台詞。
確かに本心ではあるが、それとは別に、あたしはユウスケと一緒に居たくなかった。
ユウスケに優しい言葉を掛けられる度に、あたしは罪悪感に身を斬られる。
だって、気付いてしまったから。
あたしは、アキの事が好きだと。そう…ユウスケよりも。

あたしはテーブルの上で光る無垢な紙を眺めていた。
真っ白な、A4サイズの印刷用紙。
目を閉じて、息をつく。
あたしはボールペンを走らせた。

あたしは潔い方の人間だ。
会社の社長を任されているからには、あたしの決断を迫られる場面が多々ある。
そんな時、うろたえてはいけない。
真っ直ぐ前を見て、最善の決断を、最速でしなければならない。
しかし、いざ自分の事になると、どうも踏ん切りがつかない。
何をやっているのだろう。
ユウスケに、さよならって言わなきゃ。

ユミに電話しようか…ううん。ユミに頼ってばかりじゃいけない。
手に取った携帯電話から、ユウスケの番号を呼び出した。
耳に当てると、呼び出し音があたしの心拍数を上げて行く。

「もしもし?」
ユウスケの、明るい声。心臓の近くがズキッと痛んだ。
「あ、もしもし?」
あたしは明るく振舞おうとしたが、出来なかった。
「大丈夫?」
ユウスケの、優しさ。
あたしはあのライブの夜、風邪をひいた。
頭がぼんやりして、熱を持っていたのは、風邪をひいたからだった。
「うん。大分良くなった。」
「そっか。良かった。」
「………。」
言葉が出なかった。言う事は決まっているのに、それが出て来ない。
「どした?」
心配そうに、ユウスケは言った。
「…あ…のね?」
「うん。」
「…あの…あたし…話があるの。」
ユウスケは何も言わなかった。
あたしは続けて何か言おうとしたが、先にユウスケの言葉が届いた。
「俺も、話したい事があるんだ。」
明るい声で、弾むようにユウスケは言った。
「そ…っか。それじゃ、えっと、どうしよ?」
「んっと、今から出れる?」
「うん。」
「風邪、大丈夫?」
「うん。」
「それじゃ、『ブランチ』で。俺、直ぐ出るから、アヤは15分位してから出てよ。」
「うん…。」
そして、通話を切った。
情けない…。
4つも年上の癖に、取り乱して…。何も決められなかった。
情けない。

書きかけの印刷用紙はそのままに、服を着替えた。
ベージュのシャツに、黒のキャミソール、下はカーキのワークパンツ。
ユウスケに貰ったネックレスと指輪をポケットに詰め込んだ。
髪をきちんとセットして、腕時計をはめた。
…まだ5分しか経っていない。
その後の時間は、とても長く感じた。
何かする気にもなれず、秒針の刻む一定のリズムに、気が狂いそうになった。

13分経った所で、我慢出来なくなり外へと飛び出した。
お気に入りのライムの傘を差す。

『ブランチ』までは歩いて10分掛からない。
最近よく看板を見かける、ファミリーレストランの全国チェーン店。

店に入ると、直ぐにユウスケの姿が目に入った。
どう計算しても、あたしの方が先に着く筈なのに。
あたしは丸い目をしてユウスケと同じテーブルに着いた。
「早いね。」
言うと、
「いや、実はさ、最初から居たんだ。」
ユウスケは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「え?」
その一言しか出なかった。
「アヤの家に行こうと思ったんだけど、何か行けなくてさ、ここに寄って、落ち着いたら行こうと思ってた。」
あたしは何も言えない。ユウスケは続ける。
「そしたら、アヤから電話が掛かって来たから、そこでようやく踏ん切りがついたかな。」
「…そっか。」
あたしは俯きながら、やっとそれだけ言った。
「何か頼む?」
ユウスケがメニューを寄越す。あたしは首を振って、
「ドリンクだけで良い。」
と言った。ユウスケの前にも、珈琲カップが一つだけ。
ユウスケは唇の端を持ち上げ、店員を呼ぶボタンを押した。
甲高い電子音のチャイムが鳴り、程無くして店員があたし達のテーブルに召還された。
「お待たせ致しました。」
「ドリンクバー。」
あたしは素っ気無く言うと、店員から視線を離した。
「以上で宜しいですか?」
そう言う店員に、もう一度だけ視線を向け、
「以上で。」
と言った。

あたしは席を立つと、ユウスケの空の珈琲カップを見て、
「何か飲む?」
と笑い掛けた。
「ありがと。」
そう言って、ユウスケはカップを渡した。
カップに珈琲を注ぎながら、呆然とカップのマークを見ていた。
『BRANCH』
皮肉だな…あたしは目を細めた。

あたしは珈琲2杯を持ってテーブルに戻ると、ユウスケにばれない様に息を吸った。
覚悟。

「…その、話なんだけど…。」
あたしはおずおずと切り出した。全く、情けない。
「待って。」
ユウスケは毅然とあたしを制止した。
あたしがユウスケを見ると、
「俺が先に話しても良いかな?」
ユウスケは言った。あたしは頷くしか無かった。
あたしが弱気な所為では無く、ユウスケの目には、拒否を許さない力が籠もっていた。
「あのさ、この前のライブ、凄かったよな。」
ユウスケはそう言って、珈琲に口をつけた。
あたしは頷く。ユウスケは続けた。
「本当、凄いって思った。あんなライブは、俺には出来ない。」
「そんな事…。」
あたしは否定しようとしたが、ユウスケは直ぐに遮った。
「いや、自分で判るよ。と言うか、自分達の力量じゃ無く、エスタのパワーが本当に凄いって事。」
あたしはまた、俯いた。
「で、思ったんだ。俺は、アキさんには敵わない。」

えっ?
「えっ?」

あたしは咄嗟に顔を上げた。
ユウスケは変わらず、やさしい笑みを浮かべていた。
「解るよな?意味。」
あたしは力無く頷いた。
「俺は、アヤの事が好きだ。」
あたしは動かなかった。
「でも、俺の好きなアヤは、アキさんが好きなんだ。」
心が、チクリと痛んだ。
「…ごめん。」
ユウスケは首を振った。
「違うんだよ。俺は気付いたんだ。俺が好きなのは、アキさんが好きなアヤだ、って。」
理解、出来なかった。
顔中に疑問が浮かんでいたんだろう。ユウスケは軽く笑ってから補足した。
「アキさんの事が好きなアヤに、俺は惚れたんだ。だから、アキさんの事を諦めたアヤは、見たくない。」

涙が流れた事に、暫く気付かなかった。

「ユウスケ…。」
「俺と付き合ってる時のアヤは、それまでのアヤとは違ってた。どう言う風にって説明は出来ないけど、俺が惚れたアヤとは少し違ってたんだ。何か、大切な部分が欠けてる様だった。…って言っても、今まで気付いてなかったんだけどね。」
そう言って、ユウスケは最後に照れる様に笑った。
「そんな…。」
そんな事無い、あたしは確かにユウスケが好きだった。
そう、言おうとした。しかしそれはまた、ユウスケに遮られた。
「アヤはさ、アキさんを好きで居る事で、初めて100%なんだよ。だから、アキさんを忘れて、俺を好きになってしまったアヤには、もう魅力が無くなってしまった。」
あたしは乱暴に涙を拭った。
「気付いちゃったんだよ。100%じゃないアヤを、俺は好きじゃなくなった。良い?俺がふるんだからな?俺が別れを切り出すんだ。俺の身勝手な理屈で、アヤはふられた。そう言う事だよ。」
今涙を拭った頬に、また涙が流れた。
情けなく嗚咽を漏らすあたし。
「…り‥がと…。」
ようやく、それだけ言えた。
「うん。」
ユウスケはそう言うと、
「俺の好きなアヤを見せてくれよ?これからも、近くでさ。」
と続けた。
あたしは口を押さえて何度も頷いた。
「次に逢う時、変に気まずい態度取ったら怒るからな?」
風邪も手伝って、頬が熱くなる。
「解ったのか?」
ユウスケが少し強く言った。
あたしはまた、何度も頷いた。顔はもう、くしゃくしゃだ。
「よっし。期待してるぜ?社長!」

ユウスケは立ち上がり、伝票を奪って立ち去った。
去り際に、あたしの肩をポンと叩いて。
あたしはと言うと、それから暫く泣き続けた。
周りの目を気にする余裕など、無かった。

あたしは酷い女だ。
アキを好きでいる事から逃げる為に、ユウスケを利用した。
あんなに優しいユウスケを、あたしは利用したんだ。
本当はユウスケもきっと、こんな事言いたく無かっただろうに…。
あたしはまた、自分を蔑んだ。
少し前のあたしなら、このまま自虐的な思いに任せてまた、精神不安定になっていただろう。

あたしはテーブルの紙ナプキンを鷲掴みにして、涙を拭い、鼻をかんだ。

進まなきゃ。前を向かなきゃ。
ユウスケにこんな酷い事をしておいて、
ユウスケにここまで言わせておいて、まだ燻って居る気?

あたしは勢い良く立ち上がり、店を飛び出した。
お気に入りのライムの傘を手に持ったまま、家まで全速力で走った。

ユウスケ、ありがとう。
あたし、アキが好きだよ。
心配しないで?あたし、あたし…。