第七十四話
「A」
大地を撫でる様な霧雨が降っている。
外は摩り硝子を通した様に、ぼやけている。
朝、出勤してまず手を付ける仕事。
昨日の残務処理だ。
と言っても書類に目を通すだけ。
パラパラと書類の束を頭に放り込む。
ある書類で手が止まった。
あたしはこっそりと溜め息をついた。
それはshinの著作権契約書。
あたしは何も考えずにユウスケに電話を掛けた。
立ち止まると、一歩も動けない気がしたからだ。
ユウスケは昨晩言っていた。
次に逢う時に気まずい態度を取ったら怒る、と。
電話も同じ事だ。
4コールでユウスケにつながる。
「もしもし…?」
寝起きの声は少し嗄れていて、低かった。
あたしのよく知る声。
「おはよ。起こしてごめんね?」
「ほんとだよ、全く。」
「でも、あんたの所為なんだからね。この前貰った著作権の書類、名前抜けてる。」
「え?マジ?」
「もー、見本も渡したでしょ?」
「悪い悪い。適当に書いてくれよ。」
「ったく。しっかりしてよね。」
「だって訳わかんねぇんだよあの書類。甲乙丙丁なんて今時使わないだろ?」
「丁は無いけどね。」
「あ、そうだっけ?」
「まぁいいや。取り敢えずそれだけ。こっちで直しとくから、それだけ頭に入れといて。」
「はーい。おやすみ。」
「はいはい。」
通話を切って、息をつく。
良かった。まともに話せた。
短い朝礼を終え、本日の業務に取り掛かる。
2ヵ月後に迫った、FRESH SUMMER BERRYの第二段。
去年はBERRY RECORDの実験的プロジェクトとして行われ、
その成功もかなり手伝って、このレーベルが出来上がったんだ。
今年は完全にWaterLight Labelが独自に主催するから、『BERRY』と言う名前は付けない。
今年のフェスは、マナが命名した。
『SUN SHOWER ROCK FES. 18』
マナ曰く、「やっぱりお日様の下でやるから、野外フェスでしょ!!」
だそうだ。
当たり前の事だが、だからこそ心に響くんだろう。
今年のフェスは、去年の成功もあり、規模もクオリティも格段に上がった。
今年は2DAYSだ。
あたしはそんな事を考えながらデスクを離れた。
副社長室の扉を開ける。
「山下くーん。」
山下は呆れた顔であたしを迎えた。
「だから、いつになったらノックをしてくれるのかな?」
「男が細かい事言うんじゃないの。
「はいはい。風邪はどう?」
「一晩泣いたらすっきりした。」
事情を知っている山下は少し複雑な顔をした。
「そっか…。で?何か用?」
「あのさ、山下くん、英語出来たよね?」
「うん。」
少しは謙虚になってよ。『少しなら』とかさ。
「あのさ、この英文、和訳して欲しいんだけど。」
「何これ?」
山下はあたしの渡した紙に目を落とした。
昨日の夜の、印刷用紙。
「『エース』の歌詞。」
「えっ!?」
山下の視線は、印刷用紙からあたしの顔へと移って来た。
「何処で手に入れたの?この歌詞、確かに英語だってのは解るけど、アキがかなり自己流に歌ってるから、リスニングも出来なかったんだよ?」
「ライブの時、アンコールで『エース』やったでしょ?その時ディスプレイに歌詞が出てたから。」
「だって、あんな一瞬…」
山下は言いかけた言葉を途中でやめた。
あたしはそんな山下を見て、得意気に笑った。
「…そっか、松田ならあのフラッシュみたいな映像も、記憶出来るって事か。」
「そう言う事。」
そう、あたしはたった一瞬目に映っただけで、
それが小説の1ページだろうと、大事な書類だろうと、複雑な模様だろうと、
その対象を完全に「記録」する事が出来る。
興味の無い事は直ぐに忘れてしまうが、絶対に忘れない景色も、確かにある。
しかし、この能力によってあたしの頭に入って来る情報は膨大で、
何でも見境無く気に留めていると、メモリーがいっぱいになってしまう。
余計な情報は自然と削除されてしまう。
山下は再び歌詞の書かれた印刷用紙に視点を落とした。
「…どう?」
あたしは「不安」から、山下を急かしたのだった。
山下が英語を読める事は知っている。
あたしの「記録」が間違っていない事も解っている。
それでも何故か、何処からか湧き出て来る「不安」。
山下の表情から目が離せなかった。
山下は、一瞬笑った気がした。ほんの一瞬だけ。
そして、直ぐに溜め息をついた。
「あのね、僕の方も仕事溜まってるんだから、こう言う事は自分で調べてよ。」
山下はそう言ってあたしに歌詞を返した。
「な…」
あたしは一瞬その場に凍りついた。
意地悪!!
「何でよっ!?ちょっとくらい良いじゃない!あたしだって忙しいから調べてる時間なんて無いの!!ねえっ!!」
「大丈夫、辞書と格闘しながら時間を掛ければ訳なんて簡単だよ。高校卒業レベルだし。」
高校卒業レベル…そんなの出来ると思ってんの!?
あたしの高校時代の英語の成績を知らないの!?
「もういいっ!!」
あたしは不機嫌を体中で表現して、副社長室を飛び出した。
ったく!!
「ったく!!」
何かのファイルを持ったシズカが珍しく、驚いていた。
と言っても目が少し大きくなった程度。
「どうしたの?社長。」
あたしはシズカの顔を見た。
そうだ。
「シズカ!!英語出来たよね!?ね!?」
「え…?うん、ある程度なら。」
あぁ、やっぱりそうよ。ニッポン人は謙虚でなくっちゃ。
あたしは直ぐに『エース』の歌詞をシズカに渡した。
「これ、和訳して欲しいんだけど…山下くんケチだから『自分でやれ』って言うんだよ?」
「何これ?」
「『エース』の歌詞。」
「えぇっ!?」
先程の山下との遣り取りを繰り返した。
「…成程ね。」
そう言って、シズカは歌詞に目を通した。
「どう?どう?」
あたしはまた、急かしてしまった。
シズカはにっこりと笑った。
「そう言う事か。」
そう言って、視線をあたしに向けた。
「自分でやんなさい。」
「はぁっ!?」
あたしには意味が解らなかった。
「何で?え?何で!?」
「この和訳は、あんたが自分でやるべきよ。きっと副社長もそう思ったんでしょう。」
「…どう言う事よ?」
「ま、頑張ってみる事だね。」
ポン。
シズカはあたしの肩を軽く叩いてその場を去って行った。
もう、解らない!!
あたしが立ち尽くしていると、ユミがあたしに声を掛けた。
「ちょっとー、結局トリ、どうするの!?」
ああもう、こんな時にだって、仕事は山積み。
「ちょっと待ってよ。やっぱりきちんと考えて決める!!」
あたしはそう返した。
「1日ずつ、水神とshinで良いんじゃないの?」
「うーん…。」
こうして、今日の仕事もしっかり定時を過ぎ、
あたしが家に帰ったのは22時を回っていた。
「ただい…まっ。」
誰も居ない部屋に、言いながら靴を脱いだ。
勿論傘を差していたが、少し雨に濡れたので体が冷えた。
湯船にお湯を張ると、アヒルの人形が心地良さそうに大海をゆく。
あたしも、一緒に湯船に浸かった。
手早く、しかし丁寧に作業を終え、浴室を出た。
風呂上りの火照った身体をタオルで拭きながら、
髪を乾かしながら、
乳液と化粧水をつけながら…あら?今日はちょっと良い感じに浸透してない?
とにかく、何をしてても同じ事を考えていた。
『エース』の歌詞の和訳について、だ。
山下もシズカも、何で『自分でやれ』なんて言うんだろう?
子供じゃないんだから。
買ったばかりの英和辞典を早速取り出した。
あたしの家には辞書なんて置いていない。
…そう言えば、何でユミの家にはあるんだろう?
「よっし。」
あたしは奮起して、人生初の英文の和訳、と言う作業に取り掛かった。
「えっと、I'll see you again…うわぁ…『I'll』って何だっけ?漫画?じゃ、無いよね?」
改めて、自分の英語能力の無さを知った。
この夜は、自分がいかに勉強不足かを知った夜だった。
しかし、同時に大切な事を知った夜でも逢った。
そう、アキの事。
和訳作業を始めたのが23時半、それからあたしは、実に6時間も掛けて、
作業を続けていた。
明け方には雨も上がり、朝陽が英和辞書を照らした。
途中、何度か休憩を挟み、何杯も慣れないブラックコーヒーを飲み、
やっと、完成した。
『エース』の和訳。
和訳を始めて、最初は『訳が終わったら何度も読み返してやる!!』って思ってた。
途中から、だんだん色んな感情が渦巻いた。困惑…それが大きかったろう。
そして、遂に和訳を終え、あたしは出来上がった文章を通して読んだ。
当初の思いとは裏腹に、たったの一度しか読む事が出来なかった。
ラストライブと同じだね。
涙で、何も見えなかったんだ。
次の日の朝早く、殆ど直訳だったあたしの文章を、山下に直してもらった。
それを見てまた泣いてしまったのは、言うまでも無い。
エース
僕は、また君に逢うだろう。
それが明日か、何年か経った後かは判らない。
きっと僕らはまた、二人で歩けるさ。
A 君を思う度に僕は何度頭を抱えただろう。
君と僕の引いた線が、複雑に絡み合う。
間違った場所は判ってるそれでもその場所に帰れない。
けれど僕は待っている。戻れはしないけれど。
僕はいつまでも、思い出の場所で君を待っている。
僕の名前を読んでくれ。お願いだから君の声で呼んでくれ。
僕の名前は、僕の名前は… A
君に逢えないって事の、直接の理由はもう無いけれど、僕等は何故かまた逢えない。
それでも僕は歌うんだ。風の強い日も、雨の降る日も、君が僕の事を忘れてしまわない様に。
違う線を歩む君に、僕の声が届く様に。
いつまでも、いつまでも。
君の事は聞いている。いつも気にしているから。
君が渇いて行くのを、僕は聞く事しか出来ないのだろうか。
冗談じゃない!!僕が君の渇きを潤す水になろう。空気だって、化学変化で水になるんだから。
僕なら出来る筈と信じてる。僕にしか出来ないと思ってる。
A! A! 僕と君に出来る事って何があるだろう?きっと二人で協力して世界に向けて叫ぶ事だろう。
A! A! 僕等二人一緒に歩いていけたらって思っているよ。
As
ラッキーなのは君と僕が、違う街に住んでると言う事。
最初は運命を呪ったが、今では幸運に思えている。
だってそうだろう?
大変な事件の後で僕等、何度話し合ってもきっと頭に血が上るばかりだっただろう。
僕の部屋のサボテンは、君に触れられるのを待っている。
サボテンの棘のような僕の頭は、君に触れられるのを待っている。
悪いのは、僕だ。悪いのは、君だ。
今更そんなの無いだろう?どうしたって判らないさ。
それより僕等は前に進むべきじゃないかな?
悪いのは、Aだ!!
キミが生まれた。素敵な記念日。
その記念日に、君との思い出の場所で待っていよう。
君が来ればまた、歩き出せる様に、僕はその日だけは覚悟を決めるんだ。毎年、毎年。
A! A! 僕と君に出来る事って何があるだろう?きっと二人で協力して世界に向けて叫ぶ事だろう。
A! A! 僕等二人一緒に歩いていけたらって思っているよ。
二人のA
As