第七十五話

「風邪をひくな」

カーテンの隙間から、薄い色の明かりが差していた。
外は雨。
この季節はやはり雨が多い。
となると、思い出が駆け巡る。
印象深い思い出は、いつも雨だった。
6月は、色んな事があり過ぎる。

僕は溜め息と共に起き上がった。
数日前のラストライブが、既に遠い思い出に思えてしまう。
ベッドを降りて、田中に霧吹き。
「おはよう。」
田中は気持ち良さそうにあくびした。
心なしか、彼の棘に元気が無い気がした。
僕は特にする事も無い休みの日を、部屋の中で過ごすと決めた。

母に電話する。
解散を決めた時と、ラストライブの前、そして後。
今月は母への電話が多い。

「あ、母さん?」
「あらアキ。どうしたの?」
母の声はいつも適度に明るく、心配なんて微塵も見せない。
「あのさ、来月には帰ろうと思うんだけど、そっちで何か仕事あるかな?」
「何言ってんの?あんたの部屋なんて無いよ?」
「はぁ?何でだよ?」
「そんな事言ったってねぇ、急に『解散する』何て言われても、こっちにはこっちの予定があるんだから。」
「予定って何だよ?部屋なんていっぱいあるじゃないか。大体その家は僕が建てた家だろ?何で自分が建てた家に住めないんだよ?」
「ったく、この家は父さんの家です。あんたが、父さんに買った家なんだから、父さんの家に決まってるでしょ?」

そうだ。僕がAiR-styleとしてデビューして、活動が軌道に乗った頃、
さすがに苦しかったが、父との約束を僕は果たした。
あの日、父が僕のデビューを許してくれた日、
父は言った。

「お前、やるからには絶対に途中でやめるなよ?俺に外車でも…いや、家でも買ってやれる位になれ。それまで帰って来るな。」

ただ、「やるからには精一杯頑張れ」と言う意味だった事くらい解っている。
だが、父が亡くなって、母は家に一人だった。
それでも母は毅然と振舞ったが、僕には時折、母が憔悴しているのが解った。
だから僕は、「父」の代わりとして、家を買ったのだった。
父の面影を沢山受け継いだ家を。

僕は溜め息をついた。
「解ったよ。何処か部屋借りるから。仕事くらいあるだろ?」
「この不景気で誰も皆が今の職に喰らい付くのに必死なんだよ?ある訳ないじゃない。今はコンビニのバイトだって大卒がやってるんだから。」
僕はまた、溜め息をついた。
「僕達が解散する事には納得してくれただろ?」
「それはそれ。これはこれ。」
「はいはい。」

それからお互いの近況を少しだけ報告しあって、通話を終えた。
カーテンを少し開けると、雨雲に覆われた、暗い朝が広がっていた。
僕は少し困った笑顔を、田中に見せた。
その実、何を思っていたのかは解らない。

近所の喫茶店にでも行って気分転換しよう。
僕はジーパンを穿き、長袖のTシャツの上から半袖のTシャツを重ね着した。
メッシュキャップを被って、慣れないサングラスを掛けた。

部屋の鍵を掛け、エレベーターで一階へ。
マンションのエントランスを出ようとすると、知った顔があった。
「と…トオル…?」
降りしきる雨の中、トオルは力無く笑った。
「何してんだよ!?早く入れって!!」
僕が言っても、トオルは動かない。
「何かさ…自然と足が向いちゃったんだよな…悪い。」
「良いよ、そんな事…。」
僕の言葉は、最後は聞き取れないくらい小さくなった。

トオルの目は、僕から離れ、向かって右側の、道路の先を見つめている様だった。
そして、トオルは笑った。
エントランスを出ていない僕の位置からは、トオルの目線の先は見えなかったが、
何故か直ぐにわかった。
「別れは、しないって決めた筈だろ?」
タカシは笑った。
僕は二人の行動に呆れてしまい、エントランスを出た。
頭上から落ちてくる雨が、僕をどんどん濡らして行く。
「お前等は、明日帰るんだろ?」
僕が言うと、二人は同時に頷いた。

身体が、内側から震えた。
雨に濡れ、寒いからじゃない。
僕等三人は、声を殺して笑った。
何故かよく解らないが、この状況が堪らなく可笑しかった。
僕等はお互いの顔を見合って、更に笑った。
笑い声も出さず、ただ、身体を震わせて。
自然と、空を仰いだ。
真上から放射状に落ちて来る雨が頬に当たる。
暫くして…






「風邪…ひくなよな…。」






タカシが呟いた。
一瞬、それまでと違う小刻みな震えが走った。
ビクッ!

涙が溢れ出した。
『雨が涙を隠してくれる』何て嘘だ。
冷たい雨で冷えた頬を、僕の涙は、
熱く、熱く…走った。

僕等は強く、強く握手した。
雨で手は滑ったが、誰の手も熱を失っていなかった。
雨なんかに僕等の熱は、奪えない。
僕等は互いの手を握ったまま、泣き笑いを続けた。


6月の雨は、一年で一番冷たいと、僕は思った。
「ありがとな。お前等と一緒で、今まで本当に楽しかった。」
雨雲に隠れた朝日は、誰の背も照らしてくれない。
僕等は傘も差さずに濡れるだけだった。
「俺もだ。これからどんな事があっても、お前等を忘れない。AiR-styleは最高だった。」
トオルには家族がいる。僕は涙を隠さなかった。
「本当に残るのか?」
タカシは言った。
「ああ、僕はもう少しこの街にいるよ。来月には、僕も日輪町に帰る。」
「そっか。」


AiR-styleは、それぞれ別の道を歩き出したんだ。


僕は再びエントランスに戻り、エレベーターに乗り込んだ。
部屋に帰り、濡れた服をまた着替えた。
「随分早かったね。」
田中が尋ねて来る。
僕は田中に微笑み掛けた。

あいつ等さ、本当にカッコ良いよ。

僕は勢い良くカーテンを開いた。方角は西南西。日輪町の方角。
遠く、あいつ等の進む方向の雲が、少しだけ晴れて来る気がした。

僕は部屋のアコースティックギターを手に取り、歌った。
軽やかに、軽やかに。
歌う曲は『虹』
大丈夫。僕等の行く先には、七色に輝く可能性が広がってる。




タカシ、僕は風邪なんてひいてないぜ?
お前は?トオルは?どうだ?
きっと、元気でやってるんだろうな。
忙しいだろうと思い、僕等はお互いに連絡を取り合わなかった。
それから僕は、ゆっくりと身の回りの整理をした。
ユカとは再会の約束をした。
トシくんは、僕より一足早く日輪町に帰り、
WaterLight Labelに就職したらしい。
トシくんは、根っからの『音好き』だ。
片桐とは、別れ際に固い握手を交わした。
マーシーは、泣いていた。
『チームAiR-style』の皆が、盛大な送別会を開いてくれた。



またAiR-styleを再開する時は必ず呼んで下さい。
三人が何処に居たって、僕等は駆けつけますよ!!

この言葉に涙した。
6月最後の日の、夜の事だった。
その頃にはもう、肌が『夏』を感じていた。