第七十六話
「notice」
締め切ったオフィスは、冷房が心地良い。
二の腕が少し冷たくなるが、七月の灼熱が立ち込める外界よりは幾分もまし。
仕事が一息ついて、あたしは背もたれに身体を預けた。
同時に、大きな溜め息が出る。
「ちょっと、あんたまだ怒ってるの?」
ユミは呆れ顔であたしに言った。
「え?別に怒ってないって。」
あたしは慌てて取り繕ったが、既に机の上には『エース』の歌詞が乗っていた。
「ほら、またその歌詞見てる。」
「こ、これはたまたま…!!」
あとの祭り。
そう。ユミの言う通り、あたしは怒っていた。
AiR-styleへの、アキへの、一方的な怒り。
あたしは『エース』の和訳が完成してから、少しだけ吹っ切れた。
精神科の先生の言う事では、
あたしはいつもストレスを体内に押し込めて、蓄積してしまう癖があるらしい。
そう言われても意識してストレスを外へ出す方法なんて、一朝一夕で身に付く物でも無い。
けれど、最近のあたしは少し違う。
ストレスが何処に行っているのかは判らないが、自分の欲望に、少しだけ正直になった。
あたしはエスタが好きだ。
あたしは、アキが好きだ。
だからこそ、突然に音楽を手放してしまった彼等への怒りが湧いて来た。
そう、それはごく自然なプロセスだった。
音楽をしてなくてもアキを好きだけど、音楽を諦めるアキは嫌い。
そう言う事。
あたしは、同時に悩んでいた。
エースの歌詞を呼んでいると、随所に『僕は待つ』と言う部分があった。
これは、精神論ではなく、実際に何処かで『待っている』のだ。
『思い出の場所で』と言う言葉がそれを裏付ける。
つまり、アキは何処かであたしを待っているんだ。
うん…待っているのは『あたし』だよね?
何度目になるだろう…また歌詞を読んでいた。
最後に盛り上がる部分。
YOU were born. A wonderful memorial day.
On the memorial day, I will wait at a place of a memory with you.
「ん…?」
あたしは無意識に声を出した。
周りを見回したが、誰も気付いていなかった。
安心して、再び気になった部分に目を落とした。
今まで気付かなかった…と言うより、気にも留めなかったけど、
この部分だけ、『YOU』と、全て大文字になっている。
他にそんな部分が無いか探してみるが、やはり全て大文字になっているのはここだけだった。
…そう言えば。
思って、和訳の方に目を移した。
「どしたのー?」
あたしの様子に気付いたユミが、ちょっと投げやりに声を掛けて来た。
「うん、ちょっと。」
あたしはそれだけ返して、和訳部分を読み始めた。
キミが生まれた。素敵な記念日。
その記念日に、君との思い出の場所で待っていよう。
『キミ』…!!
やはりそうだ。あたしが和訳した時は普通に『君』としていたのに、
山下が手直ししたこの和訳は、『キミ』と、カタカナ表記になっている。
「山下くん。」
イベント課の遠山さんと話している山下に声を掛けた。
振り向いた山下に、
「ちょっと。」
と、素っ気無く言った。
山下は直ぐにあたしの所に来てくれた。
「ごめんね、ちょっと聞きたいんだけど、この部分、何でカタカナになってるの?」
「ああ、それ。特に意味は無いよ。ネイティブではよくある事なんだ。『You』って言うのを少し強調して、『YOU』って大文字にしてるだけ。まぁ日本語じゃあ大体は見た目で違いを付ける為にカタカナにする位しか無いからね。」
「ふぅん…。」
そうか、と思ってあたしはその部分を眺めた。
いや、違う。
「違う。アキは何の意味も無くこんな事する奴じゃ無い。」
「え?」
「何か意味があると思うんだ、あたしは。」
「意味って…だから『強調』だってば。」
「強調するなら、この部分じゃなくても良いと思うんだ。何か、もっと別の理由がある筈。」
「んー…僕には解らないな…。」
「だよね…ごめん。」
あたしは自嘲した。
「まぁ、あんまり考え過ぎるなよ。」
「…うん。」
しかし、あたしはまた、『エース』に向き合った。
AとA…Aの複数形と言う意味で、As…即ち『エース』。
歌詞中の『two』の多さから考えても、最後の『二人のA』と言う部分から見ても、Aは二つだろう。
つまり、AkiとAya…それはもう解ってる。
わざわざ歌にしたくらいだ。何かあたしへのメッセージが隠されていても可笑しくない。
大体『思い出の場所』って何処よ!?
そんな物沢山ある。
前の職場のBERRYだってそうだし、あたしが初めてAiR-styleのアキを見たライブハウス、
『TREE STAGE』だってそうだし、その向かいにある喫茶店、『ARTER』だってそう。
あたしの家だって、アキの家だって、アキと別れた、あの居酒屋の帰り道だって…。
一緒にケーキを食べに行ったカフェ、
他にも去年のFRESH SUMMER BERRYの会場、サンパーク、
アキの目の前で失禁したホテルニューシャインズ・イン、ヒノワの庭園、
数えて行けばキリが無い。
しかも、『記念日』っていつ?
解らない事だらけだ。『キミが生まれた』の後にあるから、誕生日かな?
あたしの誕生日なら先月だった。大体毎年日輪町に帰って来るかなぁ?
しかしあたしは直ぐにその仮説を打ち消した。
去年の六月は、アキはツアーの真っ最中だった筈だ。
しかもあたしの誕生日の日はちょうどライブだった。
違う。
あたしはまた溜め息をついて、机の上のアイスコーヒーを口に含んだ。
…そう言えば、『エース』が、この曲が入ってるアルバムの『notice?』が発売されたのはいつ頃だっけ?
あたしはインターネットの世界にダイブした。
AiR-styleの公式HPに飛ぶ。解散しても、まだ残っていた。
調べてみると、ほぼ一年前。去年の六月だ。
六月…。
あたしにとって、六月と言うのは特別な意味があった。
考え過ぎかもしれないが、何故か、六月と言うのは印象深い思い出が多い。
雨の降る季節…。
『AiR-style notice?』で更に検索する。
一瞬で55,000を超えるページがヒットした。
AiR-style新作アルバム、『WANT YOU NOTICE!!(仮)』発売延期!!
と言う記事に目が留まった。
古い記事だ。
そう言えば、『notice?』は一度発売が延期になった事を思い出した。
発売前までは『WANT YOU NOTICE!!』と言うタイトルだったのか。
『WANT YOU NOTICE!!』…?そう言えば、『notice?』のレコ発ツアーのタイトルが
『WANT YOU NOTICE』だった筈だ。
その記事をじっくりと読み込んだ。
あたしの知らない事が、沢山書かれていた。
特に目に付いたのが、『延期の理由はアキ』であると言う事。
アキが、曲のクオリティにこだわって発売が遅れたと記されている。
「ユミ。」
「何よ?あんた仕事しなさいよ。社長っ。」
あたしに呼ばれたユミは、呆れて言った。
「仕事をしないのが社長ですぅ〜。あのね、『notice?』って、発売延期になったの覚えてる?」
「ああ、そんな事あったね。何か坂下さんが遅らせたって聞いた。」
「うん。何かアキが曲にこだわって発売が遅れたって書いてある。」
「曲にこだわって…?そんなんじゃなかったけどなぁ…。」
「え?」
「なんか、タカシが『直ぐに出せるのにあいつの我儘で…』って笑ってたよ?」
「笑ってた?」
「うん、『いいの?』って聞いたら、『ま、仕方ないさ』って言ってたよ。」
…仕方ない…?
普通、メンバーひとりの我儘で発売が延期されたら苛立つものじゃ無い?
「ああ、何かその話聞いた事あるわ。」
メグがパソコンから顔を上げた。
「メグも聞いたの?」
「うん、何か旦那が『曲作り始めてから一年経ってしまう所だった』って言ってたよ?」
一年…?
「一年って?」
あたしが聞くと、メグは眉根を寄せた。
「えっと、確か『notice?』が発売されたのが去年の六月でしょ?で、一昨年の七月に『Some Strike』が発売された筈なんだけど、確か『Some
Strike』が発売されてから次のアルバムの曲作りを始めたから、旦那としてはもう一ヶ月伸びるなら延期させないつもりだったらしいよ?」
「あぁ、前作から一年も明けたくなかったんだ…しかも前作ってのもシングルだし。」
ユミが言った。
「そう言う事。」
メグ。
アルバムを直ぐに出せるのに、アキが発売を遅らせた…?
わざわざ六月に…?
…そうだ…。
六月は、あたしにとって特別だった。
六月は、色んな思い出がある…でも、その殆どが『アキとの思い出』だった。
と言う事は、アキにとっても六月は特別と言う事…?
そう考えると、やはりこの歌詞には何かしらのメッセージが含まれてると思えて仕方が無い。
「ってか、メグよく覚えてるね?」
あたしが言うと、
「ああ、ちょうど『Some Strike』が発売された頃に娘が生まれたから。」
と、メグは笑った。
「あ、喜美ちゃん何歳になるんだっけ?」
ユミは身を乗り出してメグに言った。
「今月で二歳だよ。」
「そっか。」
あたしが言うと、
「その分、あたし達も年取ってるんだよ?」
と、ちょうどあたしに書類を持って来たシズカが言った。
「う…。」
あたし達は苦笑いした。
あたしが『そっか。』って言ったのは、違う意味だったんだけどな…。
「あ、シズカ、『notice』ってどう言う意味?」
「『notice』…?名詞だと通知とか、注意って感じかな。動詞だと、気付く。」
「…気付く?」
「だから、『notice?』ってクエスチョンが付くと、『気付く?』って疑問形になる訳。」
「じゃ、『WANT YOU NOTICE』だと?」
「えっと、『気付いてくれ』…かな。」
気付いてくれ…。
誰に…?あたしに?
あたしはまた、『エース』に視線を戻した。