第七十八話

「アヤの覚悟」

ぱんっ!!

叩くつもりなんて無かった。
冷静に、そう冷静に話し合うつもりだったのに。
じんわりと、掌に熱が浮かぶ。
ダメ。
冷静に話し合おう。

だが、あたしの口から出た言葉は違った。

「弱虫っ!!」

困惑したアキの顔。
こんな言葉が出るなんて、自分でも驚いた。
「…ごめん。」
咄嗟に口を押さえて言った。
「どうしたの?」
それでもアキは、優しく尋ねた。

あたしは一度、深呼吸した。

「ふぅっ。アキがビックリさせるから頭に血が上っちゃった。」
「何だよそれ。」
アキは笑った。
「えっと、ここからはアヤとアキ、じゃなくて、『WaterLight Label社長、松田綾』と、『AiR-style、坂下明』として、ビジネスの話ね?オーケイ?」
「解った。」
「よっし。」
そう言って、あたしはまた深呼吸した。
「アンタね、何勝手に辞めてんの?」
「え?」
「エスタを。誰が辞めて良いって言ったの?」
「いや、辞める事は僕等で話し合って決めた事だし…。」
あたしは一笑した。
「冗談じゃ無い!勝手に辞められちゃ困るの!!良い?アンタは何も解っちゃいない!!あの時だって…!!」
言いかけて、やめた。
『あの時』と言うのは勿論、アキがあたしにプロポーズしてくれた時の事。
あたしとアキの分かれ道だった。
「僕等は好きにやって来たつもりだ。これからも好きにやって行きたいんだ。」
「そんなワガママ通ると思ってんの!?何様のつもり!?」
「何様って…」
「良い?『AiR-style』って言うのは、ただの何処にでも居る様なバンドじゃない!!あたし達にとっては『一つの時代』なの!!簡単に終わって良いもんじゃ無いんだ!!」
必死になって叫んだ。
何が『ビジネスの話』だ…こんなに感情的になってしまって…。

アキはゆっくりと話し始めた。
「でも、僕等は痛感したんだ。僕等がやりたくも無い音楽をしても、聴く人達だって楽しくないって。」
「それが、Fineで学んだ事…?」
「そうだよ。僕等が好きになれない音楽なんて、聴く人が好きになれる筈が無い。」
「じゃあ…好きな音楽をやれば良いじゃ無い。」
「そんな事…。」
「出来ない、何て思ってるの?」
「僕等はもう、Fine Musicを裏切った。それに、また他のレーベルで良い様に扱われるのは嫌なんだ。」
「じゃあ、ウチにおいで?」

「…え?」

「WaterLight Labelは、いつでもあなた達を迎える準備が出来てます。」
「…アヤ…。」
あたしは笑った。
「社長って呼んで?」
アキも、笑った。

「本当に、大丈夫なの?」
「なぁにが?」
「Fineであんな事した僕等を、WaterLightに入れても、ほら、レーベル間のいざこざとか…」
「何それ?」
「え…?」
「我が社には優秀な人材を多数揃えております。」
「え?え?」
あたしはまた笑う。
「そんなもの、もうとっくに片付けてるよ。」
「本当に…?」
「うん。やっぱ山下くんは凄いわ。Fineの片桐さん?その人にすぐに話を持って行って、どうやら片桐さんの方も、エスタが解散してしまうのは寂しいって思ってたみたい。快く移籍を承諾してくれたよ。」
「片桐が…?」
あたしは頷いた。

アキにはアキの思いがあるのだろう。
片桐の名を聞いたアキは、とても清々しい顔をしていた。


暫く、二人で川を眺めていた。
手を繋いで…。



「アキ…?」

「ん?」

「…幸せ。」

「…うん。」


他愛も無い遣り取りが、心底嬉しかった。


「これから、忙しくなるよ?」
「え?」
「来月までにシングル出してもらうからね?」
「マジで?」
「勿論、マジよ。だってね?来月のSUN SHOWER ROCK FES.のトリは、空けてあるんだから。」
「えっ!?」
「2days、両方ともエスタがトリだよ?」
「そんな…他のバンドに悪いよ。」
「ううん…水神も、shinも、FUNK ODD SMITHも、皆そうしたい、って。」
「え…?」
「エスタ以外有り得ないから、って誰もトリをやってくれなかったの。」
「ははっ…。」

この時のアキの表情は、今でも心に焼き付いてる。
新しい遊びを知った、子供の様な笑顔。

『音楽』って言う、とても大きな存在に嫉妬した。

「アヤ…。」
「ん?………ん…。」

キスした。


夏の太陽がぎらぎらとあたし達を焼く。
アスファルトで照り返されて、またあたし達を焼く。

そんな夏の日。

あたしとアキが、また始まった。
AiR-styleが、また始まった。


そんな夏の日の太陽を、今思い出してる。
ねぇアキ…?
この日の事を話すのは、ちょっと恥ずかしいんだ。
だから、この日の事はあたしとあなただけの秘密。
それでも、良いよね?

笑っちゃうでしょ?
ようやくあなたの顔をまともに見れるようになったと思ったら、
ずっと、飽きずに見てるんだもん。
あ、でもやっぱりラストライブの時の映像はダメだな。
あなたの空気に包まれる気がして。やっぱり泣いちゃう。

そっちでもテレビ見てる?
FREE、結構人気なんだよ?
エスタと比較して…。
んー…どっちだろうね?
ふふっ。なんてね。

でも、立派にバンド、やってるよね?
しっかり見ててあげてね?
頼んだよ。
アキ。