― ――――――――――――青―――――――― ― ― ―
液晶パネルから光が出ている。
蒼い。何と言う蒼だ。
平面状に光るパネルは四方数センチと言う所か。
其の形状には何の嫌悪も感じられない。
整然と並べられたドットの集まりが意思を持たずに神経に働きかける。
何の意味も無い文字の羅列に記憶中枢が拒否を示す。
嗚呼、此処は何をして居るんだろう。
今現在の時刻が知りたい。
いや、知りたくない。
耳介に頼らずに、直接外耳道に音波を流す。
密閉された中を、音波は増幅されながら鼓膜を振動させ、中耳へ伝わる。
ラビリンスの中でリンパ液を揺らし、感覚細胞を介して電気信号へと変わる。
大脳皮質の聴覚野に届くと、次の瞬間には右脳が悲鳴を上げるのだ。
スウィッチを発明した人物の名前を知らない。
しかし親指でスウィッチを押す。
ヴォリュームは目一杯迄跳ね上がり、聴覚野迄、いや、右脳迄届く全てのレヴェルが相乗される。
神経の許容を僅かに超えないヴォリュームだ。
五月蝿い、とは思わない。
五月蝿い…?
以前、いつだったろう。其の言葉に酷く意味合いの酷似した言葉を投げ掛けられた事がある気がしてならない。
しかし、はっきりとは思い出せないのだ。
蛍光灯の灯りがグリーンを帯びている。
パネルのブルーが映えるではないか。
―――――――何かがおかしい。
薄いグレーの廊下は、私の右側は遠くの突き当り迄続いているし、左側は直ぐ其処の突き当たりで折れている。
肘を置いたステンレスの窓枠はきちんと冷たいし、レールの部分が腕に押し当たって少々痛い。
そう思った途端、意識は窓へと寄り道した。
私の頭の前半分、つまり顔の部分は外にあるが、後半分、後頭部は中にある。
肘から指へ向かう部位は外にあり、肩へ向かう部位は中にある。
外側と内側の境界を笑う。
何がおかしいのだろう。
寄り道の意識が方向の修正を始める。
そう、何かがおかしいのだ。
窓の外は橙色の空気が取り巻いていて、次第に哀愁のグリーンを帯びた空へと様相を変えて行っているし、
あまり雲の無い空からは雨の一粒さえ落ちて来そうな雰囲気は無い。
ちらほらとそびえる高いビルは、沈みそうな太陽を背に、表情を窺えない。
何の変わりも無い風景だ。
頬が灼ける様に熱く感じるが、同時に凍る様に冷たくも感じる。
一体何が…
そう考えて居る内に、私は、肘を置いた窓枠が消え失せて、前方へゆっくりと、終わりの無い空間へ落ちてしまう様な気分になり始めた。
下腹部から灼熱に湧き上がる刹那さと共に、咽喉が千切れる程に叫びを上げ、吐き出したくなったのだ。
きっと其れは、大盤の硝子をコンクリートに叩き付けた様な厭になる程甲高い声だろう。
しかし、私は恐ろしさに一瞬だけ身を震わせ、其れを止めた。
私が吐き出した叫び声が一頻り烈しく波動し、螺旋に渦巻いて消え去った後に、何が残るであろう。
静寂。
叫んだ声の烈しさと同等の、いや、其れ以上の静寂が私を襲うだろう。
私は耐え切れなくなり、今一度叫びを上げるだろう。
そしてまた、更に静寂が深まって私を襲い、私の気が触れない可能性はあまりに低い。
私の叫びは呼応を求め彷徨うのだ。
何かがおかしいが、判らない。
判らないなら、いっそ此の侭に別の思考へと移ろうとした其の時、確かに私は何かを探していると言う事実に気付いたのだ。
其れは元来に全ての人間に与えられるべき物。
其れは全ての人間に等しく具えられた物。
何を、だろう。
金銭の類だろうか。
高価なコレクション、浪費。
其れとも記憶の類だろうか。
尊い過去、煌びやかな未来。
私の探しているものはそんなちっぽけな物でなく、行動の限界ギリギリを飛び交う蝶々の様に艶やかで、
洗練された何かを其の侭に切り取る程美しく、平穏も興奮も哀情も喜悦も快楽も全て、
全てが優しく、全てが恐ろしく、そして全てが、其れに満ちている。
真実を騙る事は大変に重い罪だけれど、真実を追い求める事には何ら罪は無いのだ。
他人の目に映る自分の姿は想像でしか量れないから、せめて自分の目には優しい自分で居よう。
何も考えない傍観者が此方を見ているだろう。
彼等の視線を此の躯一杯に浴びながら、私は達観するだろう。
真実を追い求め、追い求め、其の先に何が待っていようとも。
追い求め、結局は到達する事叶わずとも。
私は行くだろう。此の足で大地を蹴り、此の手で求める物を掴む為に。
「咲。」
突然イヤフォンを取られ、江利子があたしの顔を覗いた。
「あんた、また泣いてんの?」
「えっ?嘘。」
あたしは咄嗟に頬に手を当てる。確かに濡れていた。
「ほんとだ。」
ぼうっと、手に付いた涙を眺めた。
「咲、咲っ。」
「えっ?」
「音楽、鳴ってる。」
「ああ。」
あたしはポータブルCDのリモコンの停止ボタンを押した。
「ごめん。」
「まだぼうっとしてるね。」
「うん、大丈夫。」
「今度はなにで泣いてたの?」
「ハイロウズ。」
「へぇー、あんたもそんなの聴くんだ。」
「え?何で?」
「何かいつも優しい感じの音楽ばっかり聴いてるイメージ。」
「そうかなぁ?」
「だってこの前泣いた曲は何だっけ?」
「G線上のアリア。」
「その前は?」
「アメイジング・グレイス。」
「その前。」
「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド。」
「その前。」
「風来坊…もう良いでしょ?」
「あはは、ごめんごめん。でもほら、優しい曲ばかり。」
「言われてみるとそうだけど…。」
「大体あんたは感受性が強過ぎんのよ。音楽で泣くでしょ?映画見ても大抵泣く、小説も泣く、ドキュメンタリー番組でも泣く…」
「それもどんどん挙げていくの?」
「挙げようと思えばいくらでも。」
「意地悪。」
ふわっ、と、風が吹いた。
9月の生ぬるい風が窓から入る。
「夕方になると涼しいよね。」
あたしが言うと、
「そうだね、でもやっぱり昼間は暑いよ。当日も暑いんだろうなぁ。」
江利子は目を細めた。
「江利子のクラスは何やるんだっけ?」
「漫画喫茶。みんなの家からあるだけの漫画持ち寄って。」
「へぇ。江利子いっぱい漫画持ってるもんね。」
「あ、それ秘密ね。あんまり持って来たくないんだ。本が傷むでしょ?」
「ああ、確かに。」
「でもさぁ、学園祭で漫画喫茶なんてやったって人来るのかなぁ?みんな色んな所回りたいと思うんだけどな。」
「でも、色んな所を回った人達が落ち着きに来るんじゃない?」
「あぁ、そうかも。って事は後半忙しくなるのか。」
「頑張って。」
「咲のクラスはたこ焼きだったよね?どうなの?」
「どうって?」
「誰が作るの?」
「作るのは基本的に女子。男子は屋台作ったり材料運んだり。」
「そっかそっか。井上と一緒に作ったりすんの?」
「いやぁ…それが…。」
あたしは苦笑いした。
窓の下を、次々と下校する友達たちが通る。
「え?…ふられたの?」
「さっき…ね。」
江利子はあからさまな溜め息をついた。
「また…?」
「うん…また。」
「えっと…『重い』…?」
「そ。『重い』から始まって、『疲れる』、『鬱陶しい』、『うるさい』…お決まりのコース。」
「あんた今回は何言ったの?」
「今回は気を付けてたんだけどなぁ…『あたしの事好き?』って。」
「で?」
「うん、そしたら『好きだよ。』って。だから調子に乗っちゃったのかも。」
「そこで満足しとけば良かったんだよ。」
「だよね。応えてくれたから、『もっと聴きたい』って思っちゃって…」
「うん。」
「えっと、『愛してる?』って。」
「その次は?」
「うん。『どのくらい?』とか『例えばあたしとあの人を比べて…』とか…。」
「え?それ一気に?一日で全部言ったの?」
「…と言うか…喫茶店で…全部続けて。」
「うわぁ…それはさすがに疲れるよ。だからさぁ、あんたは求め過ぎなんだって。」
「解ってんだよ?解ってんだけど…やっぱダメだー…。好きになると我慢出来なくなる。」
「でもさぁ、我慢しないと…あんたの『質問責め』に全部対応出来る男なんて居ないと思うよ?」
「だよねぇ…でも、相手が思ってる事なんて解んないから、言葉で表して欲しいんだよね。」
江利子は息を吐いて、サッシに手を掛けたまま伸びをした。
「相手が思ってる事が解んない、なんて初めっから諦めるんじゃなくて、相手がどう思ってるんだろう?って考えるんだよ。
『こんな事言ったら鬱陶しいかな?』って思うの、『好きでいて欲しい』じゃなくて、『好きで居てくれる為にはどうしたら良いか。』ってね。」
「…うん。」
「言ってる事、解る?」
「うん。解る。」
「よし。帰ろっか。」
「あ、鞄取って来る。待ってて。」
あたしは教室へ駆け出した。
「一緒に行くよぉ?」
と言う江利子に、振り返りもせずに
「直ぐ戻るから!!」
と答えた。
カラカラカラッ。
三年の教室は建てられてからまだ十年も経っていない新校舎なので、ドアの開きもスムーズだ。
ドアを開けると、誰も居ないと思っていた教室の中、一人の男子が直ぐに目に入った。
机に寄り掛かって立っている。
「あ。」
あたしは思わず声を出してしまった。
男子が寄り掛かっている机はあたしの机だったのだ。
あたしの声に気付いた男子は、
「あ、悪い。これ…お前の?」
と手に持った物を示した。
「えっ?あ。…あたし、の。」
彼はあたしのCDケースを持っていた。
「ごめん。机の上に置いてあったからさ…勝手に見てしまった。」
「う、ううん。いい。」
おずおずと自分の机に近寄り、鞄を背負う。
「はい。」
彼がケースを差し出す。
「…どうも。」
あたしは両手でそれを受け取ると、動けないでいた。
「いっぱいCD持ってんだな。あんまり知ってるの無かったけど、椎名林檎とかは俺も好きだな。」
「うん。あたしも、好き。」
「最近はどんなの聴くの?」
「今は…ハイロウズ。」
「ハイロウズかぁ、良いね。あ、でもあんまり曲は知らないかな…ブルーハーツの方は良く聴くんだけどさ。」
「ブルー…?」
「ブルーハーツ。え?知らねぇの?ハイロウズの前身のバンド。」
「えっと、じゃあ、ブルーハーツから改名して、ハイロウズ…って事?」
「うーん、メンバー変わったりしてるから完全に「そうだよ」とは言えないけど、似た様なもんかな。」
「へぇ。そうなんだ。何となく解った。」
「良かった。俺、説明とか苦手だから。」
「ありがとう。今度探してみる。」
「あ、俺何枚か持ってるよ?貸そうか?」
「え?…い、良いの?」
「うん。じゃ、明日持って来るよ。」
「あり…ありがとう。」
「いいよいいよ。んじゃ、明日な。」
そう言うと、彼は教室を出て行った。
あたしが少しぼうっとしていると、ほとんど入れ違いに江利子が教室に入って来た。
「遅いよ、咲。」
あたしは手に持ったCDケースをただ見るだけだった。
「え?咲…?咲?どうしたの?」
「えぇ〜〜っ…」
「何?何なの?」
「よく解んない。」
「は?」
あたしは事の経緯を説明した。
教室に入ると知らない男子が居て、自分のCDケースを見ていて、音楽の話をした。
「ふーん。え?三年?」
「…多分。」
「誰かわかんないの?」
「…うん。あたしのクラスの人ではなかった。」
「へーえ、で?」
「え?」
「惚れたの?」
あたしは黙ってしまった。
「図星?」
「…ううん。そう言う訳じゃなくて、解んない。」
「まだ好きなのかどうか解んない、って事?」
「ううん、そんな段階ですらなくて、だって今逢ったばかりの人だし、ちょっと話しただけだし…だから好きとか惚れたとか以前の問題なんだけど…」
「…気になる?」
「あ、うん。その表現ぴったりかも。」
「そっかぁ。でも今までの咲なら、直ぐに『惚れた!!』って言ってると思うよ?」
「え?…そう?」
「そうだよ。」
「うーん…なんか、今までとは違う感じ。」
「ふーん…あっ、帰りながら話そう?」
「あ、今日ドラマ?」
「うん。あんたも観てるでしょ?早く帰ろう。」
あたし達は小走りで駅へ向かった。
→NEXT BLUE←